フランスからイギリスへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/05 22:10 UTC 版)
「ロゼッタ・ストーン」の記事における「フランスからイギリスへ」の解説
メヌー将軍が降伏すると、フランスがエジプトで発見した考古学的、科学的な蒐集物の命運についての論争が巻き起こった。技師たちが集めた人工遺物や生物標本、書や図、絵などは研究所に帰属すると主張したメヌーは、それらをイギリスに譲渡することを拒絶した。しかしイギリスの将軍ジョン・ヘリー=ハッチンソンもそれが手渡されないうちは街を解放することはないと応じている。新たにイギリスから到着した学者のエドワード・ダニエル・クラークとウィリアム・リチャード・ハミルトンはアレクサンドリアのコレクションの調査をとりつけ、フランスが明らかにしていない遺物がまだ大量にあると主張した。本国への手紙のなかで、クラークはこう書いている。「言い表すどころか思い描くことさえできないほど多くの文物を発見した」。 ハッチンソンが全てイギリス国王の財産だと主張すると、フランスの学者エティエンヌ・ジョフロワ・サンティレールは、クラークとハミルトンを前にアレクサンドリア図書館の破滅という不気味な例えをだし、引き渡すぐらいなら発見したものはみな焼き払うといった。イギリス人の学者2人はこのフランス人の言い分に抗弁したが、ついには自然科学の対象となるような事物は学問の私的な財産になると認めるにいたった。メヌーはすぐにロゼッタ・ストーンもそうだと主張し、それを認めてフランスに持ち帰らせることをもとめた。やはりロゼッタ・ストーンの得がたい価値に気づいていたハッチンソン将軍はそれを退けている。しだいに議論は煮詰まり、文物の輸送はアレクサンドリアの降伏文書に代表者が署名したイギリス、フランス、オスマン・トルコの2つの国が協同であたることになった。 ロゼッタ・ストーンがなぜイギリスの手に渡ったのか、今日の説明は錯綜していて正確なところは明らかでない。イギリスまでそれを護送したトムキンス・ヒルグローブ・ターナー大尉は後に、メヌー将軍から直接それを奪い取り、砲架車で運んだと語っている。さらに詳しいエドワード・クラークの証言によれば、フランスの「士官と研究所の所員が」クラークとその学生ジョン・クリップス、ハミルトンをひそかにメヌー将軍の住居の裏に連れて行き、ロゼッタ・ストーンが将軍の軍用行李のなかで保護布に隠されていることを暴露したという。またクラークは、この遺品がフランス軍の兵士の目にとまれば盗まれてしまうと情報提供者が恐れていたと明かしている。このことはすぐにハッチンソンに伝えられ、おそらくはターナーとその砲架車で、ロゼッタ・ストーンは持ち去られた。 ターナーは岩盤を携え、捕獲したフランスの軍艦であるHMS Egyptienneでイギリスへ向かい、1802年2月にポーツマスに到着した。ターナーは命をうけジョージ3世にロゼッタ・ストーンやその他の遺物を献上した。植民相ロバート・ホバートによればジョージ3世はそれらを大英博物館に置くように指示した。ターナーが語るところでは、最終的に博物館に並べられる前に自分が会員であるロンドン考古協会で研究者にみせるべきだとターナーが勧め、ホバートがそれに同意したという。そしてそこでの会議で初めてロゼッタ・ストーンは調べられ、議論された。1802年3月11日だった[B][H]。 その間に学会は碑文を写し取る型板を4つつくり、オックスフォード大学、ケンブリッジ大学、エジンバラ大学、ダブリンのトリニティ大学にそれを寄付した。その後すぐに碑文の複製ができあがり、ヨーロッパの学者たちのもとを巡った[E]。1802年の終わりまでにロゼッタ・ストーンは大英博物館に運ばれ、そこで今日まで展示されている。白く塗られた石版の左右には新たに「1801年にイギリス軍がエジプトで捕獲」、「ジョージ3世に献上される」という銘が刻まれた。 ロゼッタ・ストーンは1802年の6月以来ほぼ常に大英博物館でみることができた。19世紀の半ばには、目録に「EA24」と登録された。EAとは「エジプトの遺物」(Egyptian Antiquities) の意味である。フランス軍から奪った古代エジプトの記念物のコレクションには、ほかにネクタネボ3世の石棺 (EA10) やアムンの高僧の像 (EA81)、花崗岩でできた巨大な拳 (EA9) などがある。これらはモンタギュー・ハウスに置くにはあまりに重すぎるということがすぐにわかり、邸宅の上階が増築されて、そこに運び込まれることになった。ロゼッタ・ストーンは1834年に立体芸術の展示室に置かれた。モンタギュー・ハウスが取り壊され、いまの大英博物館の建物に変わった直後だった。博物館の記録によれば、ロゼッタ・ストーンは単独の展示品としては最多になる見学者を集めており、何十年にもわたって最も売れた絵はがきのテーマともなった。 ロゼッタ・ストーンはもともと水平ではなく少し角度をつけて展示されていた。設置するための台がつくられ、しっかりと固定できるようにその両側はごく小さく削られた。当初は保護する覆いがなく、訪問客の手が触れられていないかを案内人が確認してまわっていたが、1847年になってこの展示品をケースのなかに置く必要があると判断された{{sfn|Parkinson|2005|p=32}。2004年からは保護されたロゼッタ・ストーンが特別製のケースに入れられてエジプト立体芸術のギャラリーの中央に展示されている。いま大英博物館のキングス・ライブラリには、19世紀はじめの訪問者たちのように、ケースもなく触ることもできる状態でレプリカが置かれている。 第一次世界大戦が終わりに近づいた1917年、大英博物館はロンドンの空襲を恐れて、ロゼッタ・ストーンを他の携帯可能な貴重品とともに金庫におさめた。ロゼッタ・ストーンは、ホルボーンそばのマウント・プリーザントにあるロンドン郵便局鉄道駅内の地下15.24mで2年を過ごした。戦争中をのぞけば、ロゼッタ・ストーンが大英博物館を離れたのは1度しかない。1972年の10月の1か月間、パリのルーブル美術館でシャンポリオンの「手紙」が公開されて150周年を記念し、そこで並べて展示されたのである。1999年に保全措置をとることが決まった時でさえ、作業はギャラリーの中で行われ一般には公開されたままだった。
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