フランスからの避難
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 19:52 UTC 版)
「マリアン・レイェフスキ」の記事における「フランスからの避難」の解説
機関で働いていたものたちは3人つづの2グループに分かれて逃亡することにした。11月11日、レイェフスキはジガルスキと一緒にまずニースに送られた。当時ニースはイタリア軍の占領下にあり、すでに疑いの目で見られていることから、居場所を変えつつ、ニースからも脱出する必要があった。ニースからカンヌ、アンティーブ、ニースに戻って、マルセイユ、トゥールーズ、ナルボンヌ、ペルピニャン、そしてスペインとの国境から遠くないアクス・レ・テルムにたどり着いた。 そこから先は地元のガイドを頼んでピレネー山脈を越えることにしていた。レイェフスキとジガルスキは、ドイツやフランスの監視を潜り抜けつつ、1943年1月29日にピレネー山脈を越え始めた。途中、国境付近まで案内してきたガイドに、持っていた金を全て拳銃で脅し取られたりすることもあった。それでもようやく国境をスペイン側に越えたのだが、そこで警察に拘束されてしまった。まずセオ・デ・ウルヘルの刑務所に送られ、3月24日にリェイダの別の刑務所に移された。最終的にはポーランド赤十字社の助けで5月4日に開放され、マドリードへ送られた。その後、レイェフスキとジガルスキはポルトガルへ渡り、HMSスコティッシュ号に乗ってジブラルタル海峡を渡った。1943年8月3日、そこからダグラスDC-3に乗ってイギリスへ飛んだのである。 暗号局のほかのメンバーは、レイェフスキたちほど運がよくなかった。グヴィドン・ランゲル大佐とマクシミリアン・チェンシュキ少佐はドイツに捕まってしまいシュロス=アイゼンベルクの捕虜収容所(オフラグ:将校専用収容所)に送られた。アントニ・パルトとエドヴァルド・フォクチンスキはザクセンハウゼン強制収容所へ送られ、そこでパルトは連合軍の空襲に遭い、フォクチンスキは衰弱して、それぞれ命を落とした。
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