フランスおよびハプスブルク家との関係
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 10:52 UTC 版)
「ヘンリー8世 (イングランド王)」の記事における「フランスおよびハプスブルク家との関係」の解説
ヘンリー8世が即位した時、フランスやハプスブルク家と組んだカンブレー同盟戦争で、ヴェネツィア共和国に対し優勢であった。ヘンリーはフランスのルイ12世と友好関係を結ぶ一方で、舅のアラゴン王フェルナンド2世と対フランス条約を結んだ。1511年に教皇ユリウス2世が神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世らと神聖同盟を結成するとヘンリーはこれに加わり、カンブレー同盟戦争ではスペインと連合してフランスのアキテーヌを攻めたが失敗に終わった。 1513年にはヘンリー自ら軍を率いてフランスに攻め入ったが、フランスと同盟を結んでいた義兄のスコットランド王ジェームズ4世がイングランドに攻め込んだ。だが王妃キャサリンの指導するイングランド軍にフロドゥンの戦い(英語版)で敗れ、ジェームズ4世は戦死した。教皇はフランスに融和的なレオ10世に代わり、イングランドの財政は窮乏していたため、ヘンリーはルイ12世と講和を結び、妹のメアリーとの結婚を整えた。メアリーが嫁いで数か月後にルイ12世は亡くなり、メアリーはヘンリーの親友で寵臣のチャールズ・ブランドンと再婚した。 神聖ローマ帝国君主とスペイン(カスティーリャ=アラゴン)君主の2人の祖父の崩御によって、義理の甥にあたるカール5世が両国の玉座に登り、ルイ12世の崩御によってフランソワ1世がフランス王位に登った。トマス・ウルジーはオスマン帝国の脅威に対して西ヨーロッパの諸国を団結させようと慎重に外交を進めた。フランスとイングランドの同盟が成立してロンドン条約(英語版)が結ばれ、1520年にヘンリーとフランソワは大陸にあるイングランド領のカレー近郊で会見し、豪華な饗宴、音楽会、騎馬試合が催された(金襴の陣)。だがイングランドとフランスの平和は長続きせず、翌1521年の第三次イタリア戦争でカール5世がフランスと戦った時には、ヘンリーは当初仲介しようとしたが、後にはカール5世を助けて参戦し、北フランスを攻めて領土回復を図った。だが得るものは少なく、1525年にフランスと再び講和を結んで戦争から離脱した。
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