フランスSS突撃大隊第1中隊
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「ジャン=クレマン・ラブルデット」の記事における「フランスSS突撃大隊第1中隊」の解説
1945年4月24日の明け方、ソビエト赤軍の包囲下にあるドイツ国(ナチス・ドイツ)首都ベルリンから連絡を受けたフランスSS部隊総監兼「シャルルマーニュ」師団(連隊)長グスタフ・クルケンベルクSS少将の命令を受けた第57SS大隊長アンリ・フネSS義勇大尉は中隊長を招集し、それぞれの部下にベルリンへ出発するか後方に残るかを選ばせるよう伝えた。第57SS大隊第1中隊長ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉と第2中隊長ピエール・ミシェルSS義勇中尉(SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel)は部下に対し次のように言った。 「ベルリンへの志願者は1歩前へ!」 そして、各中隊がそれぞれ1人の男に向かって1歩足を進めた。第1中隊の下士官の1人ジャン=ルイ・ピュエクロンSS義勇伍長(SS-Frw. Uscha. Jean-Louis Puechlong)によると、この時ベルリンへ出発した第1中隊の人数は将校・下士官を含め85〜90名強であったという。 1945年4月24日午前5時30分、グスタフ・クルケンベルクSS少将とアンリ・フネSS義勇大尉が率いる「フランスSS突撃大隊」(Französische SS-Sturmbataillon)はカルピンを出発し、ベルリン目指して行軍を開始した。 同日午後3時頃、フランスSS突撃大隊の車列はファルケンレーデ(Falkenrehde)の橋を渡ろうとしたが、その際に彼らをソビエト赤軍部隊と誤認したドイツの国民突撃隊によって橋は爆破された。これによって車を利用した行軍が不可能となったため、クルケンベルクは全ての補給物資と装備をトラックから降ろした後、重傷者とトラックをノイシュトレーリッツまで送り返すよう命じた。 ベルリンまでの残りの道のりを徒歩で行軍せざるを得なくなったフランスSS突撃大隊は、クルケンベルクとフネが先頭に立って移動を再開した。クルケンベルクとフネの後にヴィルヘルム・ヴェーバーSS中尉(SS-Ostuf. Wilhelm Weber)の戦術学校、ピエール・ミシェルSS義勇中尉の第2中隊、ピエール・ロスタン武装上級曹長(W-Hscha. Pierre Rostaing)の第3中隊、ジャン・オリヴィエSS義勇曹長(SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier)の第4中隊が続き、ラブルデットの第1中隊は後衛として落伍者を収容しつつ前進した。 そして1945年4月24日午後10時頃、フランスSS突撃大隊はベルリン市内のベルリン・オリンピアシュタディオン近隣の国立競技場(Reichssportfeld)に到着した。
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