第57SS大隊
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1945年3月24日、「シャルルマーニュ」師団の生存者はノイシュトレーリッツ(Neustrelitz:ベルリンから約90キロメートル北に位置する都市)に移動し、司令部を隣町カルピン (Carpin) に設置した。翌25日に師団は「45年型擲弾兵師団」を基準とした1個擲弾兵連隊(2個擲弾兵大隊および1個重兵器大隊で構成)に再編成するよう命じられ、アンリ・フネSS義勇大尉は第57SS大隊 (SS-Bataillon 57) の指揮を任された。 「シャルルマーニュ」師団(連隊)第57SS大隊 (SS-Bataillon 57):1945年3月25日〜4月23日 ドイツ北部 大隊長 アンリ・フネSS義勇大尉 (SS-Frw. Hstuf. Henri Fenet) 副官 不明 中隊長 第1中隊 シャルル・ルメグ武装中尉(W-Ostuf. Charles Roumégous:戦意喪失)→ ジャン=クレマン・ラブルデットSS義勇少尉 (SS-Frw. Ustuf. Jean-Clément Labourdette) 第2中隊 リュシアン・アンヌカールSS義勇上級曹長(SS-Frw. Hscha. Lucien Hennecart:4月中旬、大隊本部小隊長に就任)→ ピエール・ミシェルSS義勇中尉 (SS-Frw. Ostuf. Pierre Michel) 第3中隊 不明 第4中隊 ジャン・オリヴィエSS義勇曹長 (SS-Frw. Oscha. Jean Ollivier) 1945年4月初旬、ノイシュトレーリッツ地方を統括するドイツ国防軍の参謀グループが最前線より後方の防衛線の視察を行ったが、その際に彼らは武装親衛隊「シャルルマーニュ」師団(連隊)のフランス人将兵に対し、防御施設や対戦車障害物の建設工事を始めるよう命じた。このような労働は部下の士気を低下させると懸念したフネは、命令をそのまま部下に伝えるだけで終わらせるようなことはしなかった。 工事開始日の朝、集まった部下の前に立ったフネは制服の上着を脱ぎ、シャベルを使って対戦車壕を掘り始めた。黙々と対戦車障害物建設工事を続ける大隊長アンリ・フネSS義勇大尉の姿を見た部下たちは1人また1人と工事に参加し、最終的にはフネの部下全員が工事に参加していた。 4月中旬、「脱走兵、横領犯、窃盗犯は死刑に処す」という総統命令が「シャルルマーニュ」師団(連隊)に下達された。数日後、宿舎として使用している農家の電球を盗んだ下士官数名がフネのもとへ連行されてきた。総統命令に従えばこの下士官たちは銃殺に処されるはずであったが、フネは叱責だけで済ませることにした(しかし、脱走に失敗して連行されてきた脱走兵に対しては、フネは軍法会議の議長として容赦なく銃殺の判決を下した)。
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