フランスから米国へ
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「メアリー・ガーデン」の記事における「フランスから米国へ」の解説
オスカー・ハマースタイン1世からメトロポリタン歌劇場におけるコンテストに参加するよう説得されて、オペラ=コミック座との契約を破棄し、マンハッタン歌劇場に入団した。1907年11月25日にマンハッタン歌劇場において、すっかりお似合いの役柄となった《タイス》のタイトルロールを演じて米国デビューを果たした。マスネの《ノートルダムの曲芸師(英語版)》への摩訶不思議な少年の役での出演(1908年)や、ドビュッシーの《ペレアスとメリザンド》の米国初演によって、さらにアメリカの聴衆の度肝を抜いた。 1908年にはパリに戻ると1シーズンのみオペラ座に出演し、アンブロワーズ・トマの『ハムレット』のオフィーリア役(1908年)や、アンリ・フェヴリエの《モンナ・ヴァンナ》のタイトルロール(1909年)などを歌った。ブリュッセルでは《ファウスト》のマルグリット役を演じている(1909年)。その後1909年にニューヨークに再上陸し、リヒャルト・シュトラウスの《サロメ》の主役を演じた。この公演では、全身タイツを着用して臨んだ「7つのヴェールの踊り」よりも、洗礼者ヨハネの生首に猥らな口づけをする場面において、アメリカ人聴衆の大多数に倫理的な衝撃を与えた。 1910年までにガーデンの名はアメリカ国内に知れ渡った。1910年にマンハッタン歌劇場を退団して1913年までシカゴ大歌劇団に移籍し、メリザンド役やマスネの《ドン・キショット(フランス語版)》のドゥルシネア姫役、同じくマスネの《サンドリヨン》の王子役、ビゼーの《カルメン》やプッチーニの《トスカ》のヒロインを演じた。アメリカの他の大都市にも出演し、ボストンではアンリ・フェヴリエの《モンナ・ヴァンナ》の米国初演で、また1911年2月25日にはフィラデルフィアにおいて、ヴィクター・ハーバートの《ナトマ(Natoma)》の世界初演で、それぞれヒロインを演じた。 次いで1915年から1921年まで、シカゴ・オペラ協会に出演し、マスネの《クレオパトラ(フランス語版)》の主人公(1919年)や、アンリ・フェヴリエの《ジスモンダ》のタイトルロール(1919年世界初演)、モンテメッツィの《三人の王の恋(L'amore dei tre re)》のフィオーラ役などを演じた。シカゴ・オペラ協会の最後のシーズンとなった1921年から1922年には、協会の監督にも就任して、プロコフィエフの《3つのオレンジへの恋》の世界初演の舞台制作を引き受けている。この頃にはサミュエル・ゴールドウィン製作の2つの無声映画にも出演した。第一次世界大戦中はフランス政府とセルビア王国政府から受勲し、1921年にはレジオンドヌール勲章シュヴァリエ級を授与された。 1922年には、新設されたシカゴ市民オペラに監督として就任するとともに、1931年までは歌手として出演もした。演じた役柄に、マスネの《ウェルテル》のシャルロット役(1924年)、フランコ・アルファーノの《復活》の仏語版におけるカチューシャ役(1925年、米国初演)、アルテュール・オネゲルの《ジュディット》のヒロイン(1927年、米国初演)が挙げられる。1930年にはハミルトン・フォーレストの《カミーユ》の世界初演にも出演し、同年にはオペラ=コミック座に復帰していくつかのオペラに出演した。1931年にシカゴ市民オペラが倒産すると、その最終公演である《カルメン》に出演した。 1934年にアルファーノの《復活》のカチューシャ役でオペラ=コミック座に出演したのを機に、オペラ界から勇退する。引退後は、MGMのタレントスカウトを務めたり、1949年まで、クロード・ドビュッシーの生涯や作品について講演してリサイタルを開いたりした。生涯のほとんどを通じて、若手歌手を大っぴらに励ますだけでなく、若手が訓練を積むことができるように密かに資金を援助してもいた。引退後は、マスタークラスを主宰して若手芸術家を支援し続け、有望な若手には無料で参加することも認めた。
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