ロマノフ家の救出
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 04:54 UTC 版)
「マールバラ (戦艦)」の記事における「ロマノフ家の救出」の解説
1917年にロシアで革命が発生すると、マールバラは連合国を代表して黒海方面へ派遣された。1918年11月にドイツが降伏すると、マールバラはジョン・デ・ローベック(英語版)提督の指揮下、旧ロシア帝国領に進駐するイギリス艦隊の1艦としてウクライナに向かった。 1919年にはジョージ5世の命により、クリミア半島の避暑地ヤルタに幽閉されていた彼の叔母であるマリヤ・フョードロヴナ皇太后とその家族を救うため、マールバラは4月4日、連合国の占領下にあったオスマン帝国のイスタンブールを発し、一路セヴァストーポリ方面へ向かった。 4月7日、ヤルタに到達したマールバラは、ロマノフ一家の救出を速やかに実行した。当時、旧ロシア帝国海軍の主力は連合国軍の管理下に置かれており、残る艦船も連合国と同盟関係にある白軍が掌握していて、敵方となるソビエト軍にはマールバラに対抗できるような海上戦力はなかった。 不幸にして、皇帝ニコライ2世とその一家(アレクサンドラ皇后と4人の皇女たち、アレクセイ皇太子)は前年に幽閉先のエカテリンブルクで殺害されていたが、マールバラの救出劇のお陰で多くの皇族や貴族たちが命拾いした。その中にはマリア・フョードロヴナ皇太后のほか、その娘のクセニア・アレクサンドロヴナ、孫のイリナ・アレクサンドロヴナ、その夫フェリックス・ユスポフ公爵、元ロシア帝国軍最高総司令官ニコライ・ニコラヴィチ大公ら多数の皇族や貴族が含まれていた。また、アントーン・デニーキン将軍ら白軍の一部も国外への亡命を希望し、同乗した。 大勢の難民たちを乗せたマールバラは、ロシアの内戦から安全なイスタンブールに到着し、これらの人々の多くはイギリスやフランス、そしてのちにはアメリカ合衆国などへ逃れた。
※この「ロマノフ家の救出」の解説は、「マールバラ (戦艦)」の解説の一部です。
「ロマノフ家の救出」を含む「マールバラ (戦艦)」の記事については、「マールバラ (戦艦)」の概要を参照ください。
- ロマノフ家の救出のページへのリンク