ロマノフ朝以前のロシア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 05:42 UTC 版)
「ロシア帝国の歴史」の記事における「ロマノフ朝以前のロシア」の解説
詳細は「モスクワ大公国」および「ロシア・ツァーリ国」を参照 ロシア帝国の源流はモスクワ大公国にある。イヴァン3世(在位1462年 - 1505年)は1480年にジョチ・ウルスの支配(タタールのくびき)を脱し、彼とその子のヴァシーリー3世(治世1505年 - 1533年)の時代にモスクワ大公国はノヴゴロド共和国や周辺諸公国を併合して、北東ロシアの統一をほぼ完成させた。イヴァン3世のとき、初めて「ツァーリ」(王)の称号が用いられた。 ヴァシーリー3世の没後、僅か3歳で即位したイヴァン4世(雷帝)(在位1533年 - 1584年)は1547年に正式に「全ルーシのツァーリ」として戴冠した。イヴァン4世は「選抜会議」政府を組織し、「法典」の編纂、教会・修道院、行政そして軍制の改革を進め、対外的にはカザン・ハン国そしてアストラハン・ハン国を征服してヴォルガ川流域を支配下に置き、シビル・ハン国を攻撃してシベリア進出への道を開いた。1558年にはバルト海への出口を求めてリヴォニア騎士団領に攻め込むが、ポーランド・リトアニア、スウェーデンそしてデンマークの介入を呼び込む結果となった(リヴォニア戦争)。戦争が泥沼化するとイヴァン4世は「選抜会議」政府を退け、ツァーリに忠実なオプリーチニキを用いた恐怖政治を始める。大貴族を迫害するだけでなく、聖職者や庶民も犠牲となり、1570年にはノヴゴロド市民数万人が虐殺された。戦争や凶作に加えて、この圧政により国土は荒廃したが、ツァーリ権力の恐怖が国民に叩き込まれることになった。
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