ブレスト合同以後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 02:18 UTC 版)
合同に反対した正教会のコンスタンディヌーポリ総主教代理ニケフォロスは、合同派によってトルコのスパイとして糾弾されたのち投獄され、餓死した。 ウクライナ東方カトリック教会はブレスト合同以降、正教会の全ての教会建物と領地を要求し、多くの正教修道院の獲得に成功した。正教徒が庇護を期待出来たのは、オストロジスキー公などの正教徒大貴族の支配する都市や地域に限られた。 1599年には、ウクライナの正教会とプロテスタントとの間で、カトリックに対抗して自らの権利を守る為の協定が締結されるに至った。 しかしながらウクライナがロシア正教会を奉じるロシア帝国に組み込まれていく過程で、逆にウクライナ東方カトリック教会の立場が極度に悪化。無神論を掲げたソ連の下でも激しい弾圧を経験する事となった。 ブレスト合同以降のウクライナ東方カトリック教会の詳細な経緯についてはウクライナ東方カトリック教会を参照。また、この合同が全東西教会の合同への動きに現代に至るまでもたらしているマイナス影響については、東西教会の分裂の項を参照。
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