ブレスト出港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/03 05:58 UTC 版)
「1797年1月13日の海戦」の記事における「ブレスト出港」の解説
モラール・ド・ガレは12月15日から16日にかけての夜に、暗闇に紛れて、フランス海軍の軍港であるブレストから出港する予定でいた。イギリスの海峡艦隊は封鎖のために、いつもはブレスト港の沖合に戦隊を駐留させていたが、冬の大西洋の荒天のため、指揮官で海軍少将のジョン・コルポイズは、ブレストから20海里(37キロ)のいつもの駐留地点でなく、北西40海里(74キロ)の場所まで戦隊を撤退させていた。ブレストから見えるイギリスの艦は、海岸近くにいるサー・エドワード・ペリューのインディファティガブルとアマゾン、フィービー(英語版)、レヴォリューショネア(英語版)、そしてラガー(英語版)艦デューク・オブ・ヨークから成る戦隊のみだった。ペリューは、この戦争で初めてフランス艦を拿捕したイギリス人士官として、その名を知られていた。拿捕したのはフランスのフリゲート艦クレオパートル(英語版)だった。ペリューはその後、やはりフリゲート艦のポモーヌ(英語版)、ヴィルジニー(英語版)をそれぞれ1794年と1796年に拿捕し、やはり1796年の1月に、東インド会社の船ダットンが難破した際、乗員500人を救った。こういった功績により、ペリューはまずナイトに叙せられ、それから準男爵となった。インディファティガブルはラジーで、イギリス海軍でも最も大きなフリゲート艦の1隻であり、メインデッキ(英語版)に24ポンド砲、船尾甲板に42ポンドのカロネード砲をすえ、同等級のフランスのフリゲート艦よりも頑丈な装備をしていた。 薄暗がりの中でフランス艦が出航するのを監視していたペリューは、すぐさまフィービーをコルポイズに、アマゾンをポーツマスの主力艦隊へ、それぞれ警告を持たせて派遣し、その後フランスの動きを混乱させるため、インディファティガブルでブレストに入港した。モラール・ド・ガレは、湾内にいるイギリス艦は先発で、その後にもっと大型の艦が来ると思い込んでいたため、自軍の艦隊にはラ・ド・サン(英語版)を通過させようとした。この海峡は狭くて岩が多く、航路としては危険であり、ド・ガレはコルベット艦を臨時の灯台船として、海峡を通るフランスの主力艦隊に、青の照明をつけ、煙火を焚くことで灯台船の位置を知らせた。ペリューはこの一部始終を観察しており、インディファティガブルをフランス艦隊の右に滑り込ませ、無作為にロケット弾を発射し、照明をつけた。このためフランス軍の士官は混乱し、フランス艦セディサン(英語版)がグランド・スティーヴネントの岩に衝突して沈没し、乗艦していた定員1300人のうち680人が死んだ。この突然の事故により、混乱はさらに拡大し、ラ・ド・サンを艦隊が通過し終わったのは翌日の夜明けだった。敵の監視の仕事が完了したペリューは、共にいた戦隊の残り1隻を連れてファルマスに向かい、海軍本部への報告書を腕木通信で送り、自艦インディファティガブルの修理をした。
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