ブレスト合同の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 02:18 UTC 版)
先述した当時の背景をまとめる。 ウクライナへの、改革教会(カルヴァン派)を始めとするプロテスタンティズムの浸透 これに対抗しカトリック教会の一層の浸透を図る、カトリックを奉じるポーランド国王ジグムント3世の思惑 ウクライナの正教会の、ポーランド国王から選任された高位聖職者達の思惑 ウクライナにおける正教会の再編を意図した、イェレミアス2世による裁定の失敗 フィレンツェ公会議における東西教会合同の決議がなお有効であると捉えるカトリック教会側の解釈の存在 以上の背景から、ブレスト合同が成立し、東方典礼を守りつつローマ教皇の権威と権限を認めるウクライナ東方カトリック教会が成立した。 先述した社会的背景のうち、ブレスト合同が不完全なものに終わった要因は以下の通りである。 兄弟団をはじめとする少なく無い俗人正教徒、および司祭達の正教徒としての自覚は依然として篤いものであり、教会合同を推進する高位聖職者との間に小さく無い意識の差があったこと。 合同を推進していたのは主に王に選任された主教・高位聖職者であり、一般信徒に直結する司祭達のリーダーシップはほとんど無かったこと。 少し前の時期に東方教会と合意しないままに新暦(グレゴリオ暦)が西方教会で導入されたことなどから、西方教会に対する広範な不信感が拭われなかったこと。 合同会議の直前まで完全に蚊帳の外に置かれていたコンスタンディヌーポリ総主教庁の関係者は、当然の如く東西教会合同に反対していたこと。 合同会議の進め方が反対派を強制的に排除した上で行われるなど強引かつ性急に過ぎ、広範な範囲の正教徒から反発が起こったこと(後述)。
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