戦時における影響
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/17 16:30 UTC 版)
「カブラの冬」も参照 封鎖に関して最初に出された公式発表はA.C.ベル博士とジェームズ・エドワード・エドモンド(英語版)准将によって作成された。それらの報告書はドイツの食糧供給に及ぼした封鎖の影響に関する彼らの主張において違いが生じている。ドイツ国内の資料を利用したベルは、封鎖によってドイツ国内における革命的な暴動が招かれ、カイザー(ドイツ皇帝)の政権の崩壊を引き起こしたと主張した。これに対しエドモンドは、ラインラントのアメリカ軍占領地帯における民事部を担当するアーウィン・L・ハント大佐 (Col. Irwin L. Hunt) の協力により、ドイツにおける食糧不足は単にドイツ革命の混乱によって引き起こされた休戦後の現象であると考えた。 最近の多くの研究でも、ドイツ革命と休戦期において人口に与えた封鎖の影響が深刻であるとの見方には否定的である。ある研究者は封鎖によってドイツおよび中央同盟国を飢えさせて1918年の敗北に至らせたと考えているが、そのほかの研究者はドイツ人口は封鎖の結果、確かに飢餓に苦しみはしたものの、ドイツの配給制度によって一部を除いて餓死を防いでいたと主張している。東部戦線における敵対国のロシアに対するドイツの勝利、そして最終的にはブレスト=リトフスク条約の締結へ至ったことは、封鎖の影響に対して強力な対抗となるポーランドおよびその他の東部占領地帯の資源をドイツが得られることになった。11月11日の休戦は一般市民のいかなる行動によるものとしてよりも西部戦線における事態の推移によってやむを得ず為されたものであった。 ドイツの最大の同盟国であったオーストリア=ハンガリーは1918年11月3日に既に休戦条約に署名しており、ドイツ南部からの侵攻という事態が顕在化していた。 以上のような見解があるものの、ドイツ封鎖が戦争の終結に多大な貢献を為したという点は今も受け入れられている。その実、1915年まで、ドイツの輸入は戦前の水準と比較して既に55%も減少しており、輸出は1914年の53%であった。石炭や非鉄金属などの必要不可欠な工業原材料の不足に至らしめたことを別として、封鎖によって農業において必要不可欠な肥料という必需品をドイツから失わせることになった。そして後者によって、穀物、ジャガイモ、畜肉、酪農品などの食糧が1916年の終わりまで欠乏したために、多くの人民が「戦時パン (Kriegsbrot) 」や粉乳などの代用食品を消費せざるを得なくなった。食糧不足を原因とする略奪や暴動はドイツに止まらず、ウィーンやブダペストでも発生した。食糧不足が深刻化した結果、オーストリア=ハンガリーがドイツへ食糧を運搬するためにドナウ川を航行していた船舶を強奪する事態が生じた。 ドイツ政府は封鎖の影響を無くすための様々な試みを強行した。ドイツ経済の動員というヒンデンブルク綱領(ドイツ語版)は1916年8月31日に開始された。そして、その綱領は17歳から60歳までの男性全員を割当雇用させることによって生産性を向上させることを意図しており、1915年1月に当初に導入された複雑な配給制度は、大都市における貧困層に廉価な大衆用食事を提供する「戦時台所 (War kitchen) 」と共に、最低栄養必要量が満たされることを目的としていた。これらすべての構想は限られたばかりの成功を収めるに止まり、1日当たり1,000キロカロリーという平均食事量は良好な健康基準を維持するには不十分であり、壊血病、結核、赤痢といった栄養不良に起因する疾病が1917年までに蔓延する結果を生じさせた。 ドイツの公式統計は、ドイツ封鎖を起因とする栄養不良および疾病による民間人の死亡者数を76万3,000人と推計した。この数値は後の学術研究から異議を唱えられており、その研究によると全体の死者は42万4,000人と見積もられている。1918年12月におけるドイツ政府の報告書は、76万2796人の民間人が死亡した原因は封鎖によるものであると判断しており、同書はこの数値には1918年のスペインかぜ流行による死者数は含まれていないと主張している。また、1918年の最後の6か月間におけるスペインかぜによる死者数が推計されている。モーリス・パルメラは「戦前の死亡率を上回る全ての超過死亡者の原因は封鎖であるとみなすことは決して正確とはいえない」と主張しており、または彼はドイツが公表した数値は「幾分か誇張された」ものであると考えていた。ドイツの主張は休戦条約の締結後の1918年11月から1919年6月まで継続された連合国によるドイツ封鎖を中止させるために、ドイツがプロパガンダ・キャンペーンを遂行していた時期に為されたものであった。1928年、カーネギー国際平和財団(英語版)の支援の下に行われたドイツの学術研究によって、戦争期におけるドイツの民間人死亡者の徹底的な分析の機会がもたらされた。この研究ではアルザス=ロレーヌを除くドイツ国内における1歳以上の民間人の戦争関連死亡者を42万4,000人と推計しており、研究著者らは戦前の水準を上回るこれらの民間人死亡者の原因は第一に、1917年から1918年にかけての食糧と燃料不足を原因と見ている。また、この研究では更に1918年におけるスペインかぜによる死者を20万9,000人と推計している。カーネギー国際平和財団の支援によって1940年に実施されたある研究では、ドイツにおける民間人死亡者は60万人以上であると推計されている。上記で述べられた1928年に実施されたドイツによる研究によると、「徹底的な調査によって以下の結論に達した。すなわち、戦争に原因を求めることができる〔民間人の〕死者数は42万4,000人であり、インフルエンザ流行に起因する約20万人の死者をこれに付加しなければならない。」と述べられている。
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