戦時における電車の状況と63系の導入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 07:34 UTC 版)
「国鉄63系電車」の記事における「戦時における電車の状況と63系の導入」の解説
電車においては1939年製造の40系および51系より資材の節約と製造の簡易化が開始され、車体は全溶接・張上げ屋根として軽量化(資材節約)を図るとともに、室内の化粧板の簡略化、乗降扉や座席枠組の木製化、竹製吊手の採用などが実施されているほか、主制御器などの電装品の確保できず、同年竣工のモハ60形の一部は無電装であった。翌1940年に製造された両系では工程簡易化のため、車体は従来の形状で全溶接、木製屋根・雨樋のものとなり、室内は化粧板を省略しているほか、ほとんどの制御電動車が無電装となり、制御車の中にも付随車として竣工した車両があった。 その後、貨物輸送のための機関車および貨車が専ら生産されるようになり、旅客車はほとんど生産できなかったこと(客車に関しては優等車は1941年度・普通車は1942年度に中止された以降の新製は禁止されており、戦後1946年になるまで全く製造されなかった)ことから、電車に関しては極力限られた車両で輸送力を確保するため、座席撤去等の改造が行われることとなって横須賀線以外の路線は1943年から、横須賀線は1944年から実施されているほか、横須賀線以外の電車列車への2等車の連結中止と2等車の3等車への変更が実施されている(横須賀線でも実施されたが、軍部高官や皇族の輸送に支障するため中止)。また、主制御器の弱界磁段使用停止、運転速度の低下なども実施されているほか、資材供出等のため1943年から室内天井のベンチレーターカバー・手摺類・網棚ブラケット・方向板などが金属製から代用材に変更されたほか、1944年には連結部の渡り板・座席下の蹴込板・側面窓カーテンのカバー・制御車の機器類・車内表示用の地図枠・代用材を含む手摺類などが撤去されている。 さらに、1943年には輸送力増強のため片側2扉の32系の制御車/付随車および42系の4扉化と、モハ32形の3扉化が計画され、まず試作として同年8月にモハ43形およびクハ58形の計2両が改造後、順次改造が進められた。この改造は資材と人工の不足により計画通りには進捗しなかったものの、この実績をもとに木造車の鋼体化においても全長20 m片側4扉車への改造が構想されることとなった。 一方、戦時設計の車両は、1943年5月10日にD51形を対象に「戦時設計要網」およびその施行細則が定められ、これを基づいた「D51形蒸気機関車戦時設計詳表」をもとにD51形戦時型が製造されたのをはじめとして、その後、C11形、D52形蒸気機関車やEF13形電気機関車、トキ900形貨車などが製造されていたが、電車に関しても戦時設計に基いた車両が導入されることとなり、モハ63形、サハ78形が設計されているほか、全長20 m片側4扉車とすることとなった木造電車の鋼体化に際してこれらと同様の形態のクハ79形が導入されることとなった。 最初に木造電車を鋼体化改造した「クハ79形」制御車が竣工し、続いて「モハ63形」制御電動車および「サハ78形」付随車が製造されたが、終戦の頃までに竣工した車両は、クハ79形8両、モハ63形14両、サハ78形8両であり、モハ63形は電装品が確保できず、全車が付随車として竣工している。
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