国鉄63系電車
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国鉄63系電車(こくてつ63けいでんしゃ)は、1944年から1951年にかけて導入された運輸通信省鉄道総局・運輸省および日本国有鉄道(国鉄)の直流用通勤形電車である。なお、この呼称は同一の設計思想に基づいて製造された電車を便宜的に総称したもので、国鉄制式のものではなく、また、モハ63形とサハ78形のみを指す場合と、ほぼ同一の構造を持つ鋼体化改造車および他形式からの改造車からなるクハ79形を含む場合とがある。
注釈
- ^ 1911年生まれ、1934年国鉄入社、工作局電気車両設計技師、その後総裁室調査役・交流電化調査委員会委員、東北支社長などを歴任、その後三菱重工調査役
- ^ 石炭、鉄鋼、アルミニウム、造船、航空機、1942年11月に内閣に設置された臨時生産増強委員会設置要綱[16]による
- ^ 前者は企画院をはじめとする各省庁、南満洲鉄道、華北交通、華中鉄道で構成され、後者は車両生産事業者および需要者で構成される
- ^ 戦前形国電の、長桁を屋根肩部より上に設けて側柱自体を上方に伸ばす長柱方式の張上げ屋根[24]は、側構体の断面係数を拡大させ、車体強度を上げながら重量軽減を図ることを目的としたものである[25]
- ^ 当初は33両の計画であったがその後25両計画のに変更され[35]、 結果として79002、79004、79005、79009、79012、79016、79024、79025の8両が竣工(79024は終戦直後の1945年9月竣工)したが、残りの車両は工事が中止されたのか、そもそも起工もされていないのかは不明である。
- ^ 後述する私鉄割当車を含めると合計804両。
- ^ なお、1959年の称号改正までは、例えば「モハ63001」の場合、記号「モハ」、形式「63」、番号「63001」となっている。また、追加される「サ」「ク」は「サクハ」、「クモハ」のように記号の左上に小さく表記するのが正式であるが、ほとんどの車両は同じ大きさで表記されていた[42]。当時の鉄道省の電車において、電動車には必ず運転台が設置されており、「制御電動車」を示す「クモハ」の記号は制定されていなかった。
- ^ これは戦前より気動車の外板の標準厚であった。
- ^ 後の201系などでは台枠側面が全面的に露出しているほか、一般的なステンレス車両も本系列同様台枠下半部が露出している。
- ^ 盗難防止のため、金網がかぶせられていた[要出典]。
- ^ 1924年生まれ、本職は東京都庁勤務、鉄道友の会参与
- ^ 1934年生まれ、鉄道友の会参与
- ^ それまでにも布の張られた車両はあったが、テント布や質の悪いレザー、麻袋生地などあり合わせの材料が多かった。
- ^ 製造時、工場内において一旦63400 - 63402の番号となっていたが出場時までに63900 - 63902に変更されている[62]
- ^ ジュラルミンは溶接が不可能で、現在の航空機でも鋲接やファスナーが使用されている。
- ^ 20 Wのものが8本、計160W。
- ^ 正確な記録がないため使用材料は不詳であるが、第二次世界大戦中に日本で製造された航空機用ジュラルミンはいずれも耐食性が低く、飛行艇などでは耐食性を要する箇所にアルミニウム合金を使用していた。一方、同様に航空機用ジュラルミンを流用したオロ40 98 - 102は外板塗装など鋼製車両と同等の防食対策を施した(一部の車両は無塗装またはクリアラッカー仕上げであったという説もある)ため比較的良好な状態を保ったとされることから、そもそも電車は電蝕が生じやすいので、腐食対策に問題があったとも推測される。
- ^ 初期の木造電車からの改造クハ79形の一部には球山形鋼を側枠に使用するイコライザー式台車であるTR11またはTR10を装着する車両もあったが、それらはのちにクハ79024を除き交換されている。
- ^ 当時の冶金技術においては、ころ軸受は平軸受に比してメンテナンス性と連続運用時の発熱低減という点で勝ったものの、重量増と、クリアランス確保不足や材料の不良による信頼性不足という点で劣り、またコストもかかるため、トータルにするとそれほど変わらないか、ころ軸受のほうが劣ったともされている。日本製ころ軸受および玉軸受の性能が、信頼おける水準に達するには相当な時間を要したが、もちろん現代においてはその優秀性は平軸受とは比べるべくもない。
- ^ 当初の形式名はTR37で、メーカー形式はFS-1。南海電鉄がクハ2801形最終増備車に採用したF-24の同等品である。
- ^ 戦前は架線電圧が直流1500 Vの場合、実際に架線から電車が集電する段階での電圧降下を10%と見込んで実効値を直流1350 Vとし、主電動機の端子電圧を2個直列で1基あたり675 Vとしていた。これに対し、戦後は実効値を1500 VとしてMT40以降は端子電圧750 Vとした。このMT40系はその後、80系電車、70系電車、72系電車の各系列にも用いられて電車列車の時代の到来の原動力となった[要出典]。国鉄電車用量産電動機はその後中空軸平行カルダン駆動対応となったため、MT40系列は最後に新規設計され、かつ最大出力の吊り掛け駆動方式対応のものとなったが、MT30系とは電機子や界磁の磁気回路設計にはほとんど変更がなく、実効性能はほぼ同等であったため、運用上は同一に取扱うことができた。なお、発電/回生制動常用のカルダン駆動車では、私鉄を含め、再び主電動機を端子電圧675V、あるいは4個直列で340Vの設計となったが、これは高速域からの電制時に過電圧で失効するのを防ぐに、端子電圧に約10%程度のマージンを確保する必要が生じたためである[要出典]。
- ^ 同世代の大手私鉄の電車にも多用され、一部はそれらが地方私鉄に譲渡されたものがそのまま近年まで使用され、1993年製のVVVF車である相鉄9000系の第2編成に搭載された例もある。
- ^ 電磁弁制御による空気圧駆動シリンダを用いてカム軸を回転させ、主回路を構成する抵抗群の回路を切り替えるスイッチを動作させる。アメリカのゼネラル・エレクトリック社製PCの技術的系譜となるシステム。
- ^ 鉄道省の標準的な客車用自動ブレーキ弁として、日本エヤーブレーキ(現・ナブテスコ)がWH社製U自在弁の利点を取り入れて1928年に開発したもので、後に電車・気動車にも採用された。
- ^ 1948年10月に電車用のSR5およびSR6断流器、電気機関車用のCB3およびCB5高速度遮断器の事故電流遮断能力比較のための現車試験が実施され、SR5は遮断時間が最も長く、かつ、2000A以上では遮断断不能となる場合が多かった一方で、SR106では3500Aでも完全に遮断されたほか、CB3およびCB5高速度遮断器よりも遮断時間が短いという結果となっている[75]。
- ^ 大井工場で180両、吹田工場で20両を実施。
- ^ 東洋電機製造製のCS100A(直列6段・並列5段、短絡渡り、逆回転)、日立製作所製のCS101(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)およびCS102(直列7段・並列6段、橋絡渡り、一方向回転)、川崎重工業製のCS103(直列6段・並列5段、短絡渡り、一方向回転)の3社製・4機種。1948年から1951年にかけて本系列で運用試験を実施した。
- ^ この間、1949年設計の80系1次車では起動時の衝動改善策としてCS5に弱め界磁起動機能を付加したCS5Aが搭載され、この機能の付加改造はCS5改として既存のCS5搭載車に対しても1951年以降広く実施されている。
- ^ なお、国鉄制式の電車・気動車としては1931年に2両が試作された電気式気動車であるキハニ36450形に搭載された単位スイッチ式制御器が「橋絡わたり」の初採用例となる。
- ^ 1947年度製のモハ63形から客室暖房を設置したとする文献もある[90]
- ^ 1944年度製のモハ63形にも通風ダクトが設置されていたとされる文献もある[98]、また、冷却方法変更により端子電圧750 V時定格出力が135 kWから145 kWに増強されたとする文献がある[90]
- ^ モハ63771以降(奇数)の台車をTR39に、モハ63802以降(偶数車)の台車をTR37に変更したとする文献もある[90]
- ^ 重要産業団体令に基づき、1942年6月1日に発足した地方鉄道および軌道事業の統合的・統制的運営を図るための統制会[105]
- ^ 現・日本民営鉄道協会の母体となった団体の一つで資材配給の代行をしていた[108]、なお、鉄道軌道統制会が鉄道車両統制会として存続したとする文献がある[86]が、同統制会に関し官報には記載がない。なお、統制会制度の根拠となる重要産業団体令は1946年9月27日に廃止され、併せてその時点で残存していた統制会は同日付で全て解散しており[109]、前述の車両統制会も同日付で解散して同年11月に後継の鉄道車両工業協会(現・日本鉄道車両工業会)が発足している[110]
- ^ 京阪神急行電鉄(現在の阪急電鉄と京阪電気鉄道)新京阪線(後の阪急京都本線)および近畿日本鉄道名古屋線が受け入れ条件を満たしているとして、統制会から割当ての打診を受けたが、前者は新京阪線で発生した余剰車を神宝・京阪の各線に転用することが車両限界や架線電圧の相違から困難で、供出車の捻出が難しかったことなどから、後者は最小半径100mの善光寺カーブをはじめ本線上に急曲線区間が存在し入線は困難として[要出典]、いずれも受け入れを辞退している。
- ^ 廃車後は秩父鉄道に譲渡され800系として1990年まで使用された。
- ^ ただし、導入時期は戦災や風水害で稼動車両数が激減していたため供出されたのはわずか2両、それも更新改造で不要になった車体のみだった。
- ^ のち700形700 - 719に改称。
- ^ 軌道法に拠る路線においては、1924年施行の軌道運転信号保安規程では併用軌道での編成は機関車1両+客車/貨車1両まで[118]、1954年施行の軌道運転規則では併用軌道での列車編成長は30m以内(車体長14m程度の路面電車2両連結を想定したもの[要出典])で、これを超える場合については所轄大臣の認可を要するとされており、20 m級大型電車の併用軌道上での連結運転は法の想定外であった[要出典]。以後は京阪電気鉄道京津線・広島電鉄(以上軌道法)・近畿日本鉄道奈良線・京王帝都電鉄京王線・東京急行電鉄大井町線(1943-45年の間は同線二子玉川 - 溝の口間は軌道法に拠る)・名古屋鉄道・江ノ島電鉄・熊本電気鉄道(以上鉄道法)などで30m制限を超過する列車が併用軌道で運行されており、山陽でも最終的に19m級車による3両編成が認可されている。
- ^ 多くの車両が戦災を受けた山陽電気鉄道は、当時、車体幅2.4 m、車体長15 m級の小型車を主力として運行しており、また、軌道法準拠で開業した明石以東は架線電圧600 Vであったため、63系導入に際しては架線電圧の1500 Vへの昇圧および集電装置のトロリーポールからパンタグラフへの変更、電気設備の増強、プラットホームなどの構築物の改築や移設などによる限界拡大工事という、新線開業に匹敵する大工事[要出典]を実施する必要があった。このことは以後の同社の発展に大きく資するものであったが、車体幅2.8 m、車体長20 m4扉の本形式による2両編成では輸送力が過大であったため[要出典]、次の820形(800形820番台車)で17 m級となり、神戸高速鉄道経由での阪神電気鉄道・阪急電鉄との相互乗入れの関係で以後は20 m級車を導入しておらず、700形も大半は19 m2・3扉車体を備える2700系への更新となった。
- ^ ホハ201は1996年時点で車庫内に残存していた[120]
- ^ 「ロクサン形電車」の名は新聞等でも盛んに報道され、「欠陥電車」「粗悪電車」の代名詞として当時の大衆にも知れ渡ることになり、「皆殺し電車」「殺人電車」「ロクでなし電車」とも揶揄された[要出典]。
- ^ 1916年生まれ、本職は映画監督(松竹、歌舞伎座プロ)
- ^ 「国電特別改造工事」とする文献もある[130]
- ^ 当時、32/42/52/70/80系と51系の一部を除く多くの電車の貫通路には貫通幌を装備せずに扉も混雑時に開けることが困難な内開きのものとなっており[132][133]、渡り板は戦時設計の車両では装備されず、その他の戦前形車両も1944年以降資材供出のため撤去されていた[32]。
- ^ 桜木町事故被災車の2両目はサハ78形(サハ78144)であり、復旧を兼ね全金属試作車クハ79904に改造された。
- ^ 1949年に発生した三鷹事件の先頭車で、証拠物件として東京地方検察庁から保全命令が出され、三鷹電車区に車体が保管されていたモハ63019は、裁判が終了して保全命令の解除された1963年12月に廃車となった。
- ^ 1942年時点のラッシュ時の最長編成は山手線・京浜線が8両、中央線・横須賀線が7両、赤羽線が2両であった[140]。
出典
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