戦時の使用
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/13 06:41 UTC 版)
「A-2フライトジャケット」の記事における「戦時の使用」の解説
A-2ジャケットは、基礎的な飛行訓練を終了し、もっと進んだ過程へ進む前の陸軍航空隊員に対して支給されていた。通常の支給方法ではなく、航空兵は様々なサイズのジャケットを収めた箱の前へ一列に並び、補給係将校が適したサイズのジャケットを交付した。 A-2は航空兵にとっては宝物であり、所属する部隊と同様、誇りをもって着用された。航空兵は様々な勤務先の基地を転進したため、しばしば戦隊パッチや階級章を加えたり外したりし、時折、飛行させた航空機の型式や、または飛行機に描きこんだノーズアートのコピーであるアートワークを入念に作りあげた。爆撃機搭乗員は、彼らのジャケットの右前身頃に、任務を完遂した数を示す小さな爆弾の印を加えた。その結果、所有者が部隊を変えたとき、様々なサイズのパッチが除去されたり置き替えられた為、多くのジャケットは幾多の針跡だらけになった。海軍の搭乗員はこれと異なり、今までに飛んだ戦隊の全てのパッチを付けられたが、アメリカ陸軍航空隊の勤務員は彼らの現在所属する任務のパッチしか縫い付ける事が出来なかった。陸軍航空隊のエンブレムはよく左肩に縫い付けられ、塗られ、またはプリントによって表現された。特別な空軍(第五、第八)のような場合、しばしば右肩に表示された。 A-2はアメリカ陸軍航空隊の象徴であるにもかかわらず、1943年、H・H・アーノルド将軍はB-10およびB-15のような新型の布製防寒ジャケットを支持し、これ以上の革製ジャケットの製造契約をキャンセルした。言うまでもなくアーノルド将軍の航空兵に対する人気は、その決定によって改善されることがなかった。布製ジャケットへの移行の後であっても、既存の部隊はまだ代替用のA-2を発注でき、生産は1944年まで続行させられた。また搭乗員が流行の服を着続けるのを防ぐことはできなかった。数多くの写真では、朝鮮戦争で投入されたF-82ツインムスタングおよびF-86セイバーの搭乗員が、明確にオリジナルのA-2を着ており、それは10年前の支給品であるか、あるいはもっと新しいジャケットを彼らの現在のサイズに合わせたものであることを示している。 戦闘機パイロットはしばしばコックピットを暖房しておいたが、彼は戦闘に際してA-2をより素早く着ることができた。ジャケットの何着かには任務とする領域の地図が裏に縫い込まれていた。それは、うまくいけば撃墜された時にナビゲーションのために使われるはずだった。何着かのジャケット(有名なところでは、フライング・タイガース)は、裏または背中の外側に布、または革にプリントされた「ブラッドチット」を縫い付けた。これは撃墜された飛行士を助けた一般人に、特定の報酬を約束するものである。特定のヨーロッパ戦線の部隊では、戦闘機エースの特権は赤いシルクで内張りをすることだった。エースの称号は5機の空中戦果を確認した上で該当者に与えられた。 戦時の初期における写真では、全ての爆撃機搭乗員の外見がA-2着用であることを示しているが、爆撃機の達する高度では、それらはさほど役に立たなかった。いくつかの機種では、操縦士と副操縦士が、搭乗員の休憩時に原始的なキャビンを暖房し、航法士、爆撃手、銃手、無線手がA-2を着たままでいられるようにした。そして通常時には彼らは重いムートン製のB-3またはANJ4を(後にはB-9またはB-11パーカー)着こんだ。これは寒気に長時間耐えるにはより良い製品だった。当時の写真では、搭乗員に着用されたA-2は重ね着された衣類の下に着こまれており、気張らない写真では、集団の全ての階級にある搭乗員が、A-2を着ていることを示している。
※この「戦時の使用」の解説は、「A-2フライトジャケット」の解説の一部です。
「戦時の使用」を含む「A-2フライトジャケット」の記事については、「A-2フライトジャケット」の概要を参照ください。
- 戦時の使用のページへのリンク