勇之助
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勇之助(ゆうのすけ、天保3年(1832年) - 明治33年(1900年))は、越後国岩船郡板貝村(現在の新潟県村上市)出身の水主[1]。
注釈
- ^ 3月に神奈川で日米和親条約を結んだペリーは、艦隊を下田に回航して和親条約付帯協定(下田条約)を詰めたのち、もうひとつの開港地に定めた箱館を訪問して再び下田に戻り、嘉永7年6月2日(1854年6月26日)に出航、琉球に向かった。
- ^ レディー・ピアース号の乗組員は楽器持参で上陸し、少々羽目を外しながら下田の町を楽しんだ[9]。バロウズは、下田奉行所から多くの謝礼の品を贈られたほか、日本商品の見本として漆器や陶器などを購入して、間もなく帰国の途に就いた[10]。バロウズ側からは返礼として下田奉行所に18挺の銃を贈った[10]。
- ^ なお、バロウズ側も英語とオランダ語の通訳を同行させていたようである[11]。
- ^ 当時下田で勤務していた通詞は、堀達之助と立石得十郎の2人。堀も立石も優秀なオランダ語通訳であったが、英語はまだ不自由であった。ペリー艦隊の下田滞在中は英語が堪能な森山栄之助もいたが、レディー・ピアース号来航時には下田を去っていた[11]。
- ^ 河元は『安政卯年アメリカ漂流海府板貝村伊之助より聞書』の表題で紹介している[13]。
- ^ 「此者尋常之船乗りとは雲泥ニ有之、謙遜辞譲ニテ可也読書きも出来候故蘭字併アメリカ文字も少々は読、アメリカ語問試候ニ、弁し方能分り…」
- ^ 外部リンクに掲出の新潟県立文書館蔵「北アメリカ漂流伊之助より聞き書」など。『外務省外交資料館 続通信全覧』『新潟県史』では「勇之助」とされている[2]。
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m 2009年10月11日付新潟日報 11面 『碑は語る』
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u “アメリカに渡った漂流民 ~板貝村伊之助聞書~”. 新潟県公文書館. 2019年2月5日閲覧。
- ^ a b c d e f 河元由美子 2006, p. 89.
- ^ a b c d e f g “ペリー直後のアメリカ船来航-漂流民勇之助の帰国- アメリカ船の来航”. 「開港のひろば」第86号. 横浜開港資料館 (2004年11月3日). 2019年2月5日閲覧。
- ^ 河元由美子 2006, pp. 85,88.
- ^ a b c d e f “ペリー直後のアメリカ船来航-漂流民勇之助の帰国- アメリカの新聞記事に登場”. 「開港のひろば」第86号. 横浜開港資料館 (2004年11月3日). 2019年2月5日閲覧。
- ^ a b 河元由美子 2006, p. 82.
- ^ 河元由美子 2006, pp. 82-83.
- ^ a b c d e f g h i j k l 河元由美子 2006, p. 83.
- ^ a b c 河元由美子 2006, p. 85.
- ^ a b c d e f g h i j k 河元由美子 2006, p. 84.
- ^ 河元由美子 2006, pp. 83-84.
- ^ a b c d e f g 河元由美子 2006, p. 81.
- ^ “秋季企画展 戊辰戦争150年 新発田藩新たな時代との出会い (pdf)”. 新発田市立図書館. 2019年2月6日閲覧。
- ^ a b “アメリカ国ヨリ帰国人御答之下書”. 米沢図書館デジタルライブラリー. 市立米沢図書館. 2019年2月6日閲覧。
- ^ “アメリカ国ヨリ帰国人御答之下書”. 米沢古文書研究会. 2019年2月6日閲覧。
- ^ 河元由美子 2006, pp. 89-90.
- ^ 河元由美子 2006, pp. 83,90.
- ^ a b c 河元由美子 2006, p. 90.
- ^ “北アメリカ漂流伊之助より聞き書”. 新潟県立図書館/新潟県立文書館 越後佐渡デジタルライブラリー. 新潟県. 2019年2月5日閲覧。
固有名詞の分類
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