第一次世界大戦後の拡大
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/30 22:44 UTC 版)
「ニューヨーク・フィルハーモニック」の記事における「第一次世界大戦後の拡大」の解説
1921年にナショナル交響楽団(現在のワシントン・ナショナル交響楽団とは別)を、1923年にはニューヨーク・シティ交響楽団を吸収し、両オーケストラの吸収に伴いジョセフ・ストランスキーとウィレム・メンゲルベルクの2人が常任の地位を分け合う双頭体制がスタートした。1924年には、教育者としても名高い作曲家のアーネスト・シェリングによって「青少年のためのコンサート」(Young People's Concert)が開始されている。 1925年からの2年間、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーがフィルハーモニーへ集中的に客演している。1927年からアルトゥーロ・トスカニーニとメンゲルベルクの双頭体制に代わり、1928年3月20日には最大のライバルであったニューヨーク交響楽団を吸収した。これによって名称はニューヨーク・フィルハーモニー交響楽団となった。この吸収合併の際、オーディションを担当したのはメンゲルベルクである。また、トスカニーニの時代には木管楽器(特にファゴット)にドイツ式システムを採用することで機動性が格段に増し、弦楽器にはユダヤ系奏者が多数在籍して表情豊かな演奏を聞かせた。トスカニーニの厳格なトレーニングとも相まって、正確なアンサンブルが高く賞賛された。1930年のヨーロッパ演奏旅行では、まだまだアメリカのオーケストラを低く見る風潮が強かった当時のヨーロッパ楽界に、大きな衝撃をもたらした。今日でも、1930年代がニューヨーク・フィルの最盛期であったと評価する向きもある。ユダヤ系奏者が多かった(1933年のナチス・ドイツ成立によって迫害され、ドイツから逃れてきたユダヤ系奏者が多かった)ことから、「ジューヨーク・フィル」(Jew York Philharmonic)と呼ばれることもあった。 1936年にトスカニーニがニューヨーク・フィルの常任を退き、その後任にはフルトヴェングラー、フリッツ・ブッシュの名前が挙がったものの実現せず、当時まだ30代だったジョン・バルビローリが引き継いだ。バルビローリは清新な気風を吹き込んだが、いかんせん大カリスマの後では経験不足は否めず、オーケストラは低迷期に入る。翌1937年には同じニューヨークを本拠とし、前常任指揮者のトスカニーニを冠に戴いたNBC交響楽団が設立された。1942年から1943年にかけての創立100周年を記念するシーズン中常任を置かず、客演指揮者の出演が続いた。 1943年から1947年にかけてはアルトゥール・ロジンスキが常任のポストについている。彼のために「音楽監督」の称号が新設された。1943年11月14日には、当時副指揮者だったレナード・バーンスタインが、ブルーノ・ワルターの代役としてニューヨーク・フィルに伝説的なデビューを飾った。曲目はリヒャルト・シュトラウスの『ドン・キホーテ』、シューマンの『マンフレッド』序曲、ミクロス・ロージャの『主題、変奏と終曲』、アンコールにワーグナーの『ニュルンベルクのマイスタージンガー』前奏曲が演奏されている。
※この「第一次世界大戦後の拡大」の解説は、「ニューヨーク・フィルハーモニック」の解説の一部です。
「第一次世界大戦後の拡大」を含む「ニューヨーク・フィルハーモニック」の記事については、「ニューヨーク・フィルハーモニック」の概要を参照ください。
- 第一次世界大戦後の拡大のページへのリンク