ロシア帝国の支配
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 04:41 UTC 版)
18世紀になると、大北方戦争やポーランド分割などのあおりを受けて、ラトビアはロシア帝国の支配下に置かれた。旧リヴォニアはリフリャント県、旧ラトガレはヴィチェプスク県となったが、その東部は現在のベラルーシ北部とまたがっていた。この時代のリヴォニアの農民は、農奴化していたが、1820年代に東ヨーロッパ全域に拡大した農業危機は、バルト地方にも及び、抜本的な農業改革を迫られることとなった。 しかし19世紀にはロシアより早く農奴解放を行ったため(1819年)、順調に資本主義経済と市民社会の形成がなされた。それが、ラトビア人の知識人や民族主義者を生む背景となった。また、バルト三国ともにバルト・ドイツ人による主要民族に対する啓蒙運動が興り、ロシアからの自立を望むきっかけが創られた。しかしそれでもなお、バルト・ドイツ人は、都市や地方で権力を掌握し続けていた。その間、ロシア化政策は緩やかであったが、19世紀後半、アレクサンドル3世の治世においてロシア化は一層強められた。バルト・ドイツ人の権力が衰退する中で、逆にバルト三国は民族覚醒が起きるのである。ラトビアでは、19世紀後半に「ラトビア人」として自認し始めた。そしてラトビア語の文語化が進められ、ラトビア文化が開花した。そして民族主義運動と平行して、社会主義運動も活発化することとなった。1881年に始まる厳しいロシア化政策は、ラトビア人の独立心をさらに高めて行くこととなる。
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