ロシア帝国・ソビエト連邦時代(1793年-1991年)
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「カームヤネツィ=ポジーリシクィイ」の記事における「ロシア帝国・ソビエト連邦時代(1793年-1991年)」の解説
1793年の第二次ポーランド分割から、市はロシア帝国に属することとなり、カミェニェツ=ポドルスキは発音がロシア語のカーメネツ=ポドーリスキイとなり、ポドーリエ県の県都とされた。ツァーリ、ピョートル1世は2度カーメネツ要塞を訪問し、その防衛施設に感銘を受けた。塔の一つはウスティム・カルマリューク(en)の独房とされた(カルマリュークは19世紀初頭に起きた農民反乱の指導者であった)。カルマリュークはカーメネツ要塞から3度逃亡を図った。 カーメネツは裕福なヨゼフ・ギュンツブルクの住宅もあった。19世紀半ば以後、多くのユダヤ人たちがカーメネツからアメリカ合衆国へと移住した。特に彼らはニューヨークへ移り、幾つかのソサイエティーを組織した。 1915年、市はオーストリア=ハンガリー帝国に占領された。1917年のロシア革命で、市は事実上幾つかの短期に終わったなウクライナ国家の中に併合された。ウクライナ人民共和国、ウクライナ国、ドィレクトーリヤ、最終的にウクライナ社会主義ソビエト共和国に含まれた。ポーランド・ソビエト戦争の間、カーメネツはポーランド軍に占領されたが、後に1921年のポーランド・ソビエト・リガ平和条約においてボリシェヴィキ側へ割譲された。このことで、一帯が70年もの間ソビエト・ウクライナの一部となる運命を決定づけられた。 ポーランド人とウクライナ人は常に市の人口の多くを占めてきた。しかし、貿易の中心地として、カーメネツは多民族社会かつ、相当な人数の少数派ユダヤ人とアルメニア人のいる多宗教社会であった。ソビエト連邦時代、厳しい迫害がなされ、ポーランド人の大半がシベリアへ追放された(en)。ソビエト支配初期には、カームヤネツィ=ポジーリシクィイはウクライナ・ソビエト社会主義共和国のカームヤネツィ=ポジーリシクィイ州の州都であった。しかし、行政の中心はのちにプロスクリウ(現在のフメリニツキー)へ移った。 1927年、モヒリーウ=ポジーリシクィイ、カームヤネツィ=ポジーリシクィイ、ティラスポリといった南部ウクライナで、ソビエト体制側に対する農民と工場労働者の強固な反乱が起こった。モスクワから軍がこの地域に派遣され、社会不穏な動きを抑圧、およそ4,000人の死者を出した。アメリカ合衆国によれば、反乱側は謀反についての報告を送った。これは当時完全にクレムリンの公式報道機関によって打ち消された。 最初の、そして最大の大量虐殺事件の一つが、1941年8月27日から28日にかけ、市の近郊で起こった。この2日間で、23,600人のユダヤ人が殺害された。その多くは14,000人から16,000人といわれるハンガリー系ユダヤ人、そして地元のポーランド系ユダヤ人であった。ホロコーストの調査が指摘するところによると、カームヤネツィ=ポジーリシクィイの虐殺はナチスの『最終的解決』としての最初の行動であり、その犠牲者の数は5つの形態がある。目撃者は、殺害者たちは地元住民からその殺意と殺害実行を隠そうとしなかったと証言している。
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