ロシア帝国下のガグラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 06:43 UTC 版)
16世紀に、ガグラとアブハジアはオスマン帝国に征服された。西洋の商人は街から追い出され、住民の多くは山地へ逃げ出し、街は長引く衰退の時代を迎える。18世紀までに、ガグラは森林と病気のはびこる沼地に囲まれた一寒村にまで縮小してしまった。その運命はロシア帝国が版図を広げ、アブハジアを併合した19世紀になって回復した。沼は干拓され、街は新しい陸軍病院を取り囲むように再建された。しかし人口はまだ少なく、1866年の国勢調査では336人の男性と280人の女性、大部分は地元の家族か陸軍士官とその家族が生活していたと記録されている。1877年-1878年の露土戦争で、トルコ軍が侵入し、町を破壊して住人を追い出すなど大きな被害を受けたが、ロシアは戦争に勝ってガグラを再建した。 戦後、街はロシア皇族(オリガ・アレクサンドロヴナ皇女の夫)であるペーター・フォン・オルデンブルクによって「発見された」。ペーターはその地域の亜熱帯性の気候に可能性を見いだし、そこに高級保養地を建設しようと決意した。政府から高額の資金を得て、自らの宮殿をこの地に建て、ヨーロッパ周辺の広く様々な様式でその他の建物をいくつも建設した。公園には熱帯の樹木が植えられ、異国の雰囲気を出すためにオウムや猿が持ち込まれた。高価な作業にもかかわらず、その保養地は最初は成功しなかったが、後には黒海の船旅で訪れるますます多くの外国の観光客を引きつけることとなる。
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