ロシア帝国外務大臣
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「アダム・イエジィ・チャルトリスキ」の記事における「ロシア帝国外務大臣」の解説
1803年4月3日アレクサンドル1世はチャルトリスキをヴィルノ教育管区(リトアニア、ベラルーシ、右岸ウクライナ)の責任者に任じた。ヴィルノ・アカデミーは、ヴィルノ大学(ヴィリニュス大学)に再編・改組され、チャルトリスキの先進的な構想によって北東欧州最初の高等教育機関のひとつとなった。しかし、チャルトリスキが文部行政に多く関与した時間は短いものとなった。1804年事実上の外務大臣に就任しロシア帝国の外交政策を担当することとなる。外相としての最初の任務は、ナポレオン・ボナパルト率いるフランスに対して、フランス・ブルボン家の一員で亡命貴族(エミグレ)の指導者のひとりアンギャン公の処刑に抗議したことであった。 1804年6月7日フランスの駐露公使エドヴィル伯爵は、ペテルブルクを離れた。一方、8月11日チャルトリスキによってアレクサンドル1世の書簡は英国、ロンドンに届けられ、第三次対仏大同盟の結成に向けて交渉が行われた。1804年11月6日の交渉で、ナポレオンに対抗すべく、ロシア軍11万5000人、オーストリア軍23万5000人の軍を派遣するという基本的な枠組みに合意した。最終的には、1805年4月にイギリス国王ジョージ3世との交渉で攻守同盟締結に合意を見た。 チャルトリスキが1805年(1803年か?)にアレクサンドル1世に提出した「ロシアが採用すべき政治制度に関する覚書」によれば、ヨーロッパにおける勢力図を一変することが記されている。それによれば、ドイツはオーストリアとプロイセンにより勢力均衡を目論んだ。一方、ロシアは、ダーダネルス海峡、マルマラ海、コンスタンチノープル、ボスポラス海峡とコルフ島を得、念願の地中海進出を実現することが明記されていた。オーストリアには、ボスニア、ワラキア、ラグーザ、モンテネグロ支配を認めた。イギリスとロシアは、共にヨーロッパにおける勢力均衡を維持を図るとした。最後に、オーストリアとプロイセンに対して、ドイツにおける優位を認める代償として、ダンツィヒからヴィスワ川までの領域を割譲させ、リトアニアとポーランドをロシアとの同君連合として自治国家の形態で国家再建に同意するという構想を目論んだ。この構想は、ロシア主導の独立ポーランドの国家再建としては、最も現実的な保証を与えることとなった。しかし、この構想は、アウステルリッツの戦いによる敗北とティルジット条約によりナポレオンのフランス帝国による保護国・ワルシャワ公国の成立で画餅に帰した。
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