その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/30 15:24 UTC 版)
ボルゲントライヒで最も古い建物は、シュタイネルネ・ハウスである。その歴史はハルデハウゼン修道院と緊密に結びついている。シトー会修道士は、1405年または1406年から1803年まで古い十分の一税倉庫を修道院として使っていた。この建物の精確な建造時期は明らかでなく、「1300年頃」とされている。1313年に火災があったと伝えられており、この時にはすでに存在していたはずである。この建物は、ヴェストファーレン地方にわずか数棟しか遺されていない修道院建築の一つとして地域的な文化史的に重要である。シュタイネルネ・ハウスのヴォールトの地下室は12世紀後期の日付を持つ。これはこの周辺地域で最も古い世俗のヴォールト地下室である。帝国代表者会議主要決議後の1803年にハルデハウゼン修道院はプロイセン政府の所有に移管された。シュタイネルネ・ハウスは1848年にボルゲントライヒ市に売却され、現在までその所有下にある。1920年から1952年までこの建物は学校として使われたが、その後1977年までは一部が居住目的に貸し出された。これ以後この歴史的建造物は空き家となり、次第に荒廃していった。1985年に記念建造物に指定された。修復と内部改造の後、1999年にヘクスター郡の風致ステーション、市民団体「レーベンスウェルテス・ベルデラント・ウント・ディーメルタール」、エッゲ=ヴェーザー自然文化協会、行動連盟「ターク・デア・レギオーネン」が入居している。3階にはクルト=プライヴィシュ小図書館がある。この図書館には、20世紀後半のヘクスター郡の博物学者クルト・プライヴィシュの遺産が収蔵されている。さらに自然愛好家は、土着動物の標本や頭骨、ヘクスター郡の自然や自然保護に関する絵画や標識をシュタイネルネ・ハウスで見ることができる。
※この「その他の建物」の解説は、「ボルゲントライヒ」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「ボルゲントライヒ」の記事については、「ボルゲントライヒ」の概要を参照ください。
その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/16 05:25 UTC 版)
「ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ」の記事における「その他の建物」の解説
エレメーエフはドーミンゼル(Dominsel)の東側にある「ミクロラヨン6」という建物群を建てたほか、カリーニングラードの美術館の建物も建てた。
※この「その他の建物」の解説は、「ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ」の記事については、「ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ」の概要を参照ください。
その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/09 04:30 UTC 版)
区裁判所。3階建て漆喰塗りの後期古典主義建築。1877年建造。 アルテ・シューレハウス(旧学校)。プロプスト=マイヤー通り1番地。寄せ棟屋根を戴く17世紀の3階建て木組み建築。1725年に改築され、1972年に修復された。 シュッツェンハレ(射撃ホール)。1924年建造 ボールベルク。避難城砦施設、礼拝堂、墓地 ユダヤ人墓地。ブリーロン、アルメ、マートフェルトにあった。その遺構は現在も保存されている。
※この「その他の建物」の解説は、「ブリーロン」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「ブリーロン」の記事については、「ブリーロン」の概要を参照ください。
その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 14:23 UTC 版)
楼門:元禄17年(1704年)建立 鐘楼:現在の鐘楼は正徳4年(1714年)に再興された。以前は寛文8年(1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次世界大戦の折に供出され、現在の鐘は昭和58年(1983年)に再興された。
※この「その他の建物」の解説は、「大善寺 (甲州市)」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「大善寺 (甲州市)」の記事については、「大善寺 (甲州市)」の概要を参照ください。
その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 19:44 UTC 版)
笑意軒は、池の南岸、離宮敷地の南端近くにある茶屋で、池に面した北側を正面とする。建物名は李白の『山中問答歌』の句、「問余何意栖碧山 笑而不答心自閑」(余に問ふ何の意ありて碧山に栖むと。笑ひて答えず心自ら閑かなり)に由来する。笑意軒前の池の岸は、直線的な切石で構成した船着場になっている。建築面積は63平方メートル。寄棟造、茅葺の屋根の北・東・西の三方に杮葺の庇をめぐらし、東側には杮葺の突出部がある。北側正面は深い土庇となり、大小の飛石を配置し、榑縁を設ける。寄棟造の主体部の東側は手前が「口の間」、その奥が「中の間」であり、これらの西に「次の間」、建物西端には板敷の「膳組の間」がある。中の間の東側の突出部には3畳で床(とこ)、付書院付きの「一の間」があり、その東に納戸、東端に厠がある。口の間の外に面した壁の内法上は、円形の下地窓を左右に6個並べた独特の意匠となっている。下地窓の上方に掛けられた「笑意軒」の扁額は、曼殊院良恕法親王(智仁親王の兄)の筆である。中の間、次の間は南に面して大きな開口部を設け、南側の農地が見える。この建物は公家住宅に存在した「物見」と同様、邸内から外部の様子を眺めるための建物という性格をもっている。中の間は2間の間口一杯に窓を設けるが、この窓の下の腰壁に独特の意匠を施す。この腰壁は横に細長いが、その中央部分を平行四辺形に区切って、そこに金箔を張り、左右の直角三角形のスペースには市松文様の天鵞絨(ビロード)を張る。なお、この腰壁が現在のようなデザインになったのは、八条宮7代目の家仁親王が修理を加えた時からで、当初は腰壁全面に天鵞絨が張られていた。口の間東側の杉戸外面の引手は矢羽根形、口の間・中の間・次の間の襖の引手は船の櫂の形とする。襖には山水や花鳥が描かれていたが、剥落が著しい。昭和の修理時に、一の間・納戸境の襖の下張りから承応4年(1655年)の年紀が発見され、この年が建立時期の上限となる。 月波楼は、池の西岸、古書院の北側にある茶屋で、南を正面とし、池に面した北側と東側には石垣を築く。建築面積は26平方メートル。寄棟造、杮葺とする。建物名は白居易の『西湖詩』の「月点波心一顆珠」(月は波心に点じ一顆(ひとつぶ)の珠)という句に由来する。中央の土間を囲んで東に「中の間」、北に「一の間」、西に板敷の「膳組所」があり、中の間の手前に「口の間」が突出する。松琴亭が冬向きの茶屋とされるのに対し、こちらは夏向きの茶屋とされている。一の間にのみ竹の竿縁の天井を張り、他の部分は化粧屋根裏として、竹垂木、竹木舞、葭簀の野地からなる屋根裏をそのまま見せる。直線的な材が多い中で、棟木を支える束に1本だけ皮付の曲がった材を用いているのが目立つ。土間には「渡海朱印船の絵馬」と称する額が掛かっているが、剥落が著しく、図柄は定かでない。二の間は池に面した東面と西面に竹簀子の縁を設ける。二の間の「歌月」の額は後水尾天皇の筆とも霊元天皇の筆ともいう。膳組所は南東に長炉を設け、北西に竈、袋棚、釣棚を設ける。西側には水屋(流し)があり、床面近くに横長の下地窓を開ける。昭和の修理時に襖の下張りから承応元年(1652年)の年紀が発見され、この年が建立時期の上限となる。 賞花亭は、池の南側にある大きな島の頂上よりやや西に北面して建つ。皮付柱を用いた、間口2間の小規模で素朴な茶屋であり、「峠の茶屋」と呼ばれる。建築面積は12平方メートル。切妻造、茅葺とする。中央の土間を囲んで「コ」の字形に4枚の畳を敷く。北側正面と西面の大部分は吹き放し、西面の袖壁と東面の壁にもそれぞれ大きな下地窓を開ける、開放的な構えになる。土間に炉と竈を設ける。南側には水屋を設け、その上を竹の連子窓とする。南側壁に掛かる「賞花亭」の額は曼殊院良尚法親王(智仁親王の子)の筆。この建物はもとは今出川の八条宮本邸にあった「龍田屋」という小亭を移築したもので、使用する時は「龍田屋」の字を白と紺で染めた暖簾を掛けたという。古図によれば、この建物はもとは中島の山頂に、現在とは逆に南向きに建っていた。前述の「賞花亭」の額が書かれたのが宝暦13年(1763年)であることから、同年頃に現在の位置に移され、方位も変更されたとみられる。なお、この建物は昭和9年(1934年)の室戸台風で倒壊し、翌年に新材で復元されたものである。 園林堂は、池の南側にある大きな島の西端に建つ持仏堂で、離宮内で唯一の本瓦葺の建物である。宝形造、本瓦葺で、正面に唐破風を付し、正面と両側面の三方に銅板の庇をめぐらす。周囲には高欄付の縁を設ける。なお、小屋組の構成からみて、当初は瓦葺ではなく軽い屋根葺材(檜皮か杮)が用いられていたと推定される。堂内は板敷、格天井で、奥には間口一杯に仏壇を設ける。かつては楊柳観音画像と細川幽斎(智仁親王の和歌の師)の画像が祀られていたが、これらは別途保管され、現在は堂内に何も祀られていない。仏壇の手前には横長の火頭形の枠があり、紗を張った障子を立てる。仏壇の奥壁は金箔張りとする。仏壇の上部は菱格子の欄間とし、仏壇の下は上下の框の間を縦方向に三等分し、それぞれに格狭間を入れる。火頭枠と欄間の菱格子の組子は黒漆塗、火頭枠の外側の羽目板や格挟間の外側の壁面は春慶塗、格挟間の内側は金箔張りとする。堂の周囲には黒石を敷き詰めた雨落敷をめぐらすが、この雨落敷の上をまたいで横断する形で、方形切石の飛石が設けられており、桂離宮における奇抜なデザインの一例として知られている。
※この「その他の建物」の解説は、「桂離宮」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「桂離宮」の記事については、「桂離宮」の概要を参照ください。
その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:12 UTC 版)
清涼殿の西にある書院造の建物は、主たる室の名をとって「諸大夫の間」と呼ばれている。東から西へ3室があり、それぞれ「公卿の間」、「殿上人の間」、「諸大夫の間」と称する。公卿の間は別名「虎の間」といい、参議以上の公家が使用した。殿上人の間は別名「鶴の間」といい、諸侯、所司代、高家らが使用した。諸大夫の間は別名「桜の間」といい、その名のとおり諸大夫が使用した。このように御所内では人物の身分により、使用する部屋が厳格に分かれていた。室名の鶴の間、虎の間、桜の間はそれぞれの部屋の障壁画の画題にちなむもので、いずれも水墨淡彩であり、虎図は岸岱、鶴図は狩野永岳、桜図は原在照の筆である。諸大夫の間の北には「御車寄」(みくるまよせ)、南には大正天皇の即位式の時に造られた「新御車寄」がある。 小御所は、清涼殿の東、紫宸殿の北東に位置する南北棟の建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。会議、対面や皇太子の元服などの儀式に用いられた建物である。慶応3年(1867年、新暦では1868年1月)に徳川慶喜の処置を決めるためのいわゆる「小御所会議」が開かれた場所としても知られる。ただし、安政度造営の小御所は1954年8月16日に花火の火が燃え移って焼失し、現存する建物は1958年、旧建物に忠実に再建されたものである。内部は身舎部分に3室を設け、東西南北にそれぞれ廂を設ける。身舎は畳敷きで格天井、廂は板敷きで化粧屋根裏とする。この建物は、建具に半蔀を用い、周囲に高欄をめぐらし、階段を設けるなど、外観には寝殿造風の要素があるが、内部は書院造風になっている。ただし、床の間などの座敷飾りはない。身舎の3室は南から北へ「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」とする。天井はいずれも格天井だが、下段が格天井、中段が小組格天井、上段が最上級の折上小組格天井と、部屋の格に応じて形式に差をつけている。上段の間には厚畳2畳を敷いた上に茵を置いて天皇の座とし、その背後には大和絵の四季絵の屏風を立てる。これらの室の障壁画は大和絵の手法で日本の四季の風景を描いたもので、伝統的な四季絵の形式を踏襲する。上段の間には吉野の春、中段の間には富士[要曖昧さ回避]の夏と龍田川の秋、下段の間には田上川の冬を描く。安政度造営時の障壁画は上段を狩野永岳、中段を鶴沢探真、下段を勝山琢文が担当し、東廂を原在照、南廂を梅戸在親、前述のとおり、これらは1954年に焼失した。しかし、北廂を冷泉為恭が担当していた襖6面は当時別置されていたために無事であった。現在ある登内微笑(とのうちみしょう)らによって復元されたものである。 御学問所は小御所の北に位置する南北棟の建物である。屋根は入母屋造、檜皮葺。小御所と異なり、平安復古調の建物ではなく、建具は舞良戸を用い、内部の主たる室には床、棚を設けるなど、内部外観ともに書院造の意匠とする。家康による慶長度の造営時に初めて設けられた建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。また、新政府の樹立を宣言した「王政復古の大号令」は、慶応3年12月9日(1868年1月3日)に天皇出御のうえ御学問所で発せられた。内部は東西2列、各列3室の6室構成になる。東列は北から南へ「上段の間」、「中段の間」、「下段の間」とし、西列は北から南へ「菊の間」、「山吹の間」、「雁の間」とする。上段の間と菊の間には床と違棚を設ける。各室の障壁画は、狩野永岳、岸岱、原在照らの筆になる。東列の表向きの諸室には中国の故事を画題とした漢画が描かれ、内向きの部屋である西列の諸室には大和絵の草花や鳥が描かれている。また、御学問所の御鈴廊下を挟んで西南側には「八景の間」という殿舎が存在する。 御常御殿は御学問所の北東に位置する東西棟の建物で、天皇の日常生活の場として用いられた。屋根は入母屋造、檜皮葺。紫宸殿とともに、御所内で最大の建物である。平安時代には清涼殿が天皇の居所にあてられていたが、近世になって御常御殿が別に建てられるようになってからは、こちらが天皇の居所となり、清涼殿は儀式の場となった。御常御殿は清涼殿のような復古調ではなく、書院造を基調とした建物であり、内部は前後3列に部屋を配し、計15室に分かれている。最前列には西から「下段の間」、「中段の間」、「上段の間」があり、これらは儀式などの行われた表向きの室である。下段の間、中段の間、上段の間の順に床高が一段ずつ高くなっているが、これら3室の境には柱2本ずつが立つのみで、間仕切りの壁や襖はない。上段の間の東、帳台構の奥には「剣璽の間」がある。ここはかつて清涼殿の夜御殿に置かれていた、三種の神器のうちの剣と勾玉が置かれていた部屋である。上段・中段・下段の間の障壁画は、中国の故事を題材としたもので、帝鑑図と呼ばれる、為政者への戒めとしての画題が選ばれており、濃彩の謹直な筆法で描かれている。画の筆者は上段が狩野永岳、中段が鶴沢探真、下段が座田重就(さいだしげなり)である。剣璽の間には土佐光清が花鳥図を描いている。剣璽の間の東裏には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の東面から北面にかけて、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の間」が並ぶ。これらは内向きの部屋で、御小座敷は読書始などの内々の行事や対面に用いられ、一の御間、二の御間、三の御間、次の間は天皇の日常生活の場であった。御小座敷下の間の南、建物の南東端には、簀子縁に張り出す形で「落長押の間」がある。建物の西北部に位置する「申口の間」(南北の2室)は女官の伺候した部屋である。これらの諸室に囲まれた、中央部には、外部に面していない「御寝の間」、「御清間」の2室がある。御常御殿は以上の15室で構成される(御寝の間の西にある「中仕切の間」を含めれば16室)。内向きの諸室の障壁画は、前述の狩野永岳、鶴沢探真のほか、土佐派、円山派などの絵師によるもので、日本の四季の風景や花鳥を題材としたものである。 御三間(おみま)は御常御殿の南西に接する東西棟の小さな建物で、上段、中段、下段の3室からなり、涅槃会、茅輪、七夕、盂蘭盆などの行事がここで行われた。 御常御殿の北側には迎春(こうしゅん)、御涼所(おすずみしょ)、聴雪(ちょうせつ)、御花御殿(おはなごてん)、参内殿(さんないでん)、長橋局(ながはしつぼね)、奏者所(そうしゃどころ)など、いくつかの殿舎や比較的小規模な建物が現存する。 迎春は孝明天皇が書見(勉強)の場として建てさせた、入母屋造、檜皮葺、南北棟の建物で、御常御殿の北に位置する。10畳の「南の間」と、変形5畳半の「北の間」からなる小規模で簡素な建物である。塩川文麟が襖絵を描いている。 御涼所は迎春の北に接続する入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物で、京都の暑い夏を快適に過ごすことを主眼とした建物であり、窓を多く設けている。内部は北が9畳の「上の間」、南が7畳半の「次の間」で、上の間の西に4畳半の「裏上の間」がある。上の間には床(とこ)と違棚、裏上の間には床を設ける。上の間では床と棚に挟まれた壁の腰の位置に窓を設けるなど、通風に意を用いている。 聴雪は他の建物よりやや遅れて安政4年(1857年)に孝明天皇の好みで建てられたもので、寄棟造、杮葺の数寄屋造建築である。御涼所と聴雪の間は、「吹抜廊下」と称する、壁がなく吹きさらしの簡素な廊下でつないでいる。聴雪の内部は東から西へ「上の間」、「中の間」、「下の間」がある。中の間の床脇(とこわき)の地袋の戸に描かれた鸚鵡(おうむ)と果物籠の図は呉春の筆である。 以上の建物群のさらに北、御所敷地の北端はかつての後宮の所在地であり、すでに多くの建物が失われているが、皇后御常御殿、若宮姫宮御殿、飛香舎などの建物が残っている。 皇后御常御殿は皇后の居所として用いられた、入母屋造、檜皮葺、東西棟の建物である。御常御殿と同様、建物内は細かく間仕切りされて13室に分かれ、部屋の用途と格に応じて障壁画の画題が選ばれている。建物の東面から南面にかけて鍵の手に並ぶ「御上段」、「御中段」、「御下段」の3室はもっとも格式の高い部屋であり、中国の有徳の女性にかかわる故事を題材にした「列女伝」の障壁画が描かれている。建物の北東には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物の中央部には外部に面していない「御寝の間」がある。御寝の間の北側から西側にかけて「御化粧の間」、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の御間」が並び、三の御間と次の御間の西側には南北2室の「申口の間」がある。 皇后御常御殿から渡廊下を北へ進むと、右手に「御黒戸」(仏間)があり、その先は坪庭の「藤壺」を隔てて西に若宮姫宮御殿、北に飛香舎がある。 若宮御殿・姫宮御殿は一つの建物で、東が若宮御殿、西が姫宮御殿である。両御殿とも、東に「御上段」、西に「次の間」があり、これらの手前は若宮御殿・姫宮御殿を通して一続きの「御縁座敷」となっている。 飛香舎は平安京の内裏に存在した五舎の一つで、女官の入内の儀式がここで行われた。五舎とは飛香舎(藤壺)、凝花舎(梅壺)、襲芳舎(雷鳴壺)、昭陽舎(梨壺)、淑景舎(桐壺)を指す。これらは長らく姿を消していたが、寛政度造営時に飛香舎のみが平安様式で復活し、安政度造営でもこれを踏襲したもので、現存する京都御所の建物の中では、もっともよく平安時代の様式を伝えている。建物は東西棟の入母屋造、檜皮葺で、内部は身舎の南・東・北に廂を設け、東廂の東にさらに孫廂がある。孫廂の手前には渡廊(わたろう)が接続する。身舎と南廂は仕切りのない1室とする。内部は円柱、板敷の床などに寝殿造の意匠がみられ、中央に御帳台を置く。飛香舎の北東には玄輝門があり、これも平安時代の内裏にあった門の名前を引き継ぐものである。ただし、平安時代には玄輝門の真北に内裏全体の北門である朔平門があったが、現在の京都御所では、スペースの関係で両門の位置関係がずれており、玄輝門は朔平門よりも東寄りに建てられている。 春興殿は、平安京内裏十七殿の一。現在も同名の殿舎があるが、平安時代の頃の春興殿とは、位置関係が異なり、安政年間に造営された内侍所(賢所)のあった場所に大正天皇の即位礼にあたり造営された。大正・昭和両天皇の即位礼では、東京から三種の神器を京都御所へ遷す必要があり、その際は賢所として使用された。東京の皇居と京都御所の間を、宮中三殿の賢所に祀られている神鏡を輸送するために賢所乗御車と呼ばれる特殊客車が製造されたが、これは「神」を輸送の対象とする世界的にも類例がないと思われる、極めて珍しい車両である。
※この「その他の建物」の解説は、「京都御所」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「京都御所」の記事については、「京都御所」の概要を参照ください。
その他の建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 23:39 UTC 版)
神社(2社) 神仏習合の時代より瑞龍寺にあった神社。「昭和・平成の大修理」のため、他所に移設したものを2020年(令和2年)7月に敷地内に戻した。もともと2つの社と鎮守堂があったが、鎮守堂は高岡市内にある赤祖父神社に明治初期に売却、2つの社は瑞龍寺境内に残されていた。再移設にともない、社の修復とともに、2つの社を納める木造の、幅5.5m、奥行き約3.7m、高さ約5mの覆屋(おおいや)を新築した。 瑞龍寺文化財保存館 伽藍の外側、大茶堂の北側に位置する。通常は一般公開していないが、宝物展などが開催された際に公開されることがある。
※この「その他の建物」の解説は、「瑞龍寺 (高岡市)」の解説の一部です。
「その他の建物」を含む「瑞龍寺 (高岡市)」の記事については、「瑞龍寺 (高岡市)」の概要を参照ください。
- その他の建物のページへのリンク