その他の建物とは? わかりやすく解説

その他の建物

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ボルゲントライヒ」の記事における「その他の建物」の解説

ボルゲントライヒで最も古い建物は、シュタイネルネ・ハウスである。その歴史はハルデハウゼン修道院緊密に結びついているシトー会修道士は、1405年または1406年から1803年まで古い十分の一税倉庫修道院として使っていた。この建物精確な建造時期は明らかでなく、「1300年頃」とされている。1313年火災があったと伝えられており、この時にはすでに存在していたはずである。この建物は、ヴェストファーレン地方にわずか数棟しか遺されていない修道院建築一つとして地域的な文化史的に重要である。シュタイネルネ・ハウスのヴォールト地下室12世紀後期日付を持つ。これはこの周辺地域で最も古い世俗ヴォールト地下室である。帝国代表者会議主要決議後の1803年にハルデハウゼン修道院プロイセン政府所有移管された。シュタイネルネ・ハウスは1848年ボルゲントライヒ市に売却され、現在までその所有下にある。1920年から1952年までこの建物学校として使われたが、その後1977年までは一部居住目的貸し出された。これ以後この歴史的建造物空き家となり、次第荒廃していった。1985年記念建造物指定された。修復内部改造の後、1999年ヘクスター郡風致ステーション市民団体「レーベンスウェルテス・ベルデラント・ウント・ディーメルタール」、エッゲ=ヴェーザー自然文化協会行動連盟「ターク・デア・レギオーネン」が入居している。3階にはクルト=プライヴィシュ小図書館がある。この図書館には、20世紀後半ヘクスター郡博物学者クルト・プライヴィシュの遺産収蔵されている。さらに自然愛好家は、土着動物標本頭骨ヘクスター郡の自然や自然保護に関する絵画標識をシュタイネルネ・ハウスで見ることができる。

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その他の建物

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ヴァディム・ゲンナディエヴィッチ・エレメーエフ」の記事における「その他の建物」の解説

エレメーエフはドーミンゼル(Dominsel)の東側にある「ミクロラヨン6」という建物群を建てたほか、カリーニングラード美術館建物建てた

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ブリーロン」の記事における「その他の建物」の解説

区裁判所3階建て漆喰塗りの後期古典主義建築1877年建造。 アルテ・シューレハウス(旧学校)。プロプスト=マイヤー通り1番地寄せ棟屋根戴く17世紀3階建て木組み建築1725年改築され1972年修復された。 シュッツェンハレ(射撃ホール)。1924年建造 ボールベルク。避難城砦施設礼拝堂墓地 ユダヤ人墓地ブリーロンアルメ、マートフェルトにあった。その遺構は現在も保存されている。

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大善寺 (甲州市)」の記事における「その他の建物」の解説

楼門元禄17年1704年建立 鐘楼現在の鐘楼正徳4年1714年)に再興された。以前寛文8年1668年)の銘が入った鐘があったが、第二次世界大戦の折に供出され現在の鐘は昭和58年1983年)に再興された。

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その他の建物

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桂離宮」の記事における「その他の建物」の解説

笑意軒は、池の南岸離宮敷地南端近くにある茶屋で、池に面した北側正面とする。建物名李白の『山中問答歌』の句、「問余何意碧山 笑而不答心自閑」(余に問ふ何の意ありて碧山栖むと。笑ひ答えず心自ら閑かなり)に由来する。笑意軒前の池の岸は、直線的な切石構成した船着場になっている建築面積63平方メートル寄棟造茅葺屋根北・東・西の三方杮葺の庇をめぐらし東側には杮葺突出部がある。北側正面は深い土庇となり、大小飛石配置し榑縁設ける。寄棟造主体部東側手前が「口の間」、その奥が「中の間」であり、これらの西に「次の間」、建物西端には板敷の「膳組の間」がある。中の間東側突出部には3畳で床(とこ)、付書院付きの「一の間」があり、その東に納戸東端に厠がある。口の間の外に面した壁の内法上は、円形下地窓左右に6個並べた独特の意匠となっている。下地窓の上方に掛けられた「笑意軒」の扁額は、曼殊院良恕法親王智仁親王の兄)の筆である。中の間次の間は南に面して大きな開口部設け南側農地見える。この建物公家住宅存在した物見」と同様、邸内から外部様子眺めるための建物という性格をもっている。中の間は2間の間一杯に窓を設けるが、この窓の下の腰壁に独特の意匠を施す。この腰壁は横に細長いが、その中央部分平行四辺形区切って、そこに金箔張り左右直角三角形スペースには市松文様天鵞絨ビロード)を張る。なお、この腰壁現在のようなデザインになったのは、八条宮7代目家仁親王修理加えた時からで、当初腰壁全面天鵞絨張られていた。口の東側杉戸外面引手矢羽根形、口の間・中の間・次の間の襖の引手は船のの形とする。襖には山水花鳥描かれていたが、剥落著しい。昭和修理時に、一の間・納戸境の襖の下張りから承応4年1655年)の年紀発見されこの年建立時期の上限となる。 月波は、池の西岸古書院北側にある茶屋で、南を正面とし、池に面した北側東側には石垣を築く。建築面積26平方メートル寄棟造杮葺とする。建物名白居易の『西湖詩』の「月点波心一顆珠」(月は波心に点じ一顆ひとつぶ)の珠)という句に由来する中央の土間囲んで東に「中の間」、北に「一の間」、西に板敷の「膳組所」があり、中の間の手前に口の間」が突出する松琴亭が冬向き茶屋とされるのに対し、こちらは夏向き茶屋とされている。一の間にのみ竹の竿縁天井張り、他の部分化粧屋根裏として、竹垂木竹木舞、葭簀野地からなる屋根裏そのまま見せる。直線的な材が多い中で、棟木支える束に1本だけ皮付の曲がった材を用いているのが目立つ。土間には「渡海朱印船絵馬」と称する額が掛かっているが、剥落著しく図柄定かでない。二の間は池に面した東面西面竹簀子の縁を設ける。二の間の「歌月」の額は後水尾天皇の筆とも霊元天皇の筆ともいう。膳組所は南東に長炉を設け北西に竈、袋棚釣棚設ける。西側には水屋流し)があり、床面近く横長下地窓開ける。昭和修理時に襖の下張りから承応元年1652年)の年紀発見されこの年建立時期の上限となる。 賞花亭は、池の南側にある大きな島の頂上よりやや西に北面して建つ。皮付柱用いた間口2間の小規模素朴な茶屋であり、「峠の茶屋」と呼ばれる建築面積12平方メートル切妻造茅葺とする。中央の土間囲んで「コ」の字形に4の畳を敷く。北側正面西面大部分吹き放し西面袖壁東面の壁にもそれぞれ大きな下地窓開ける、開放的な構えになる。土間に炉と竈を設ける。南側には水屋設け、その上を竹の連子窓とする。南側壁に掛かる「賞花亭」の額は曼殊院良尚法親王智仁親王の子)の筆。この建物はもとは今出川八条宮本邸にあった龍田屋」という小亭移築したもので、使用する時は「龍田屋」の字を白と紺で染めた暖簾掛けたという。古図によれば、この建物はもとは中島山頂に、現在とは逆に南向き建っていた。前述の「賞花亭」の額が書かれたのが宝暦13年1763年)であることから、同年頃に現在の位置移され方位変更されとみられる。なお、この建物昭和9年1934年)の室戸台風倒壊し翌年に新材で復元されたものである園林堂は、池の南側にある大きな島の西端に建つ持仏堂で、離宮内で唯一の本瓦葺建物である。宝形造本瓦葺で、正面唐破風付し正面両側面の三方銅板の庇をめぐらす周囲には高欄付の縁を設ける。なお、小屋組構成からみて、当初瓦葺ではなく軽い屋根葺材(檜皮か杮)が用いられていたと推定される堂内板敷格天井で、奥には間口一杯仏壇設ける。かつては楊柳観音画像細川幽斎智仁親王和歌の師)の画像祀られていたが、これらは別途保管され、現在は堂内に何も祀られていない仏壇の手前に横長火頭形のがあり、紗を張った障子立てる。仏壇の奥壁は金箔張りとする。仏壇の上部は格子欄間とし、仏壇の下は上下の間を縦方向三等分し、それぞれに格狭間入れる。火頭欄間格子組子黒漆塗、火頭外側羽目板や格挟間外側壁面春慶塗、格挟間内側金箔張りとする。堂の周囲には黒石敷き詰めた落敷をめぐらすが、この落敷の上またいで横断する形で、方形切石飛石設けられており、桂離宮における奇抜なデザイン一例として知られている。

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その他の建物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:12 UTC 版)

京都御所」の記事における「その他の建物」の解説

清涼殿の西にある書院造建物は、主たる室の名をとって「諸大夫の間」と呼ばれている。東から西へ3室があり、それぞれ公卿の間」、「殿上人の間」、「諸大夫の間」と称する公卿の間は別名「虎の間」といい、参議上の公家使用した殿上人の間は別名「鶴の間」といい、諸侯所司代高家らが使用した諸大夫の間は別名「の間」といい、その名のとおり諸大夫使用したこのように御所内では人物の身分により、使用する部屋厳格に分かれていた。室名の鶴の間、虎の間、の間はそれぞれの部屋障壁画の画題にちなむもので、いずれも水墨淡彩であり、虎図は岸岱図は狩野永岳図は原在照の筆である。諸大夫の間の北には「御車寄」(みくるまよせ)、南には大正天皇即位式時に造られた「新御車寄」がある。 小御所は、清涼殿の東、紫宸殿北東位置する南北棟の建物である。屋根入母屋造檜皮葺会議対面皇太子元服などの儀式用いられ建物である。慶応3年1867年新暦では1868年1月)に徳川慶喜処置決めるためのいわゆる小御所会議」が開かれた場所としても知られる。ただし、安政造営小御所1954年8月16日花火の火が燃え移って焼失し現存する建物1958年、旧建物忠実に再建されたものである内部身舎部分に3室を設け東西南北それぞれ廂を設ける。身舎畳敷き格天井、廂は板敷き化粧屋根裏とする。この建物は、建具半蔀用い周囲高欄めぐらし階段設けるなど、外観には寝殿造風の要素があるが、内部書院造風になっている。ただし、床の間などの座敷飾りはない。身舎の3室は南から北へ下段の間」、「中段の間」、「上段の間」とする。天井はいずれ格天井だが、下段格天井中段小組格天井上段最上級の折上小格天井と、部屋の格に応じて形式に差をつけている。上段の間には厚畳2畳を敷いた上に置いて天皇の座とし、その背後には大和絵四季絵屏風立てる。これらの室の障壁画大和絵の手法で日本の四季風景描いたもので、伝統的な四季絵形式踏襲する上段の間には吉野の春、中段の間には富士[要曖昧さ回避]の夏と龍田川の秋、下段の間には田上川の冬を描く。安政造営時の障壁画上段狩野永岳中段鶴沢探真、下段勝山琢文が担当し、東廂を原在照、南廂を梅戸在親前述のとおり、これらは1954年焼失した。しかし、北廂を冷泉為恭担当していた襖6面当時別置されていたために無事であった。現在ある登内微笑とのうちみしょう)らによって復元されたものである御学問所小御所の北に位置する南北棟の建物である。屋根入母屋造檜皮葺小御所異なり平安復古調建物ではなく建具舞良戸用い内部主たる室には床、設けるなど、内部外観ともに書院造意匠とする。家康による慶長度の造営時に初め設けられ建物で、御講書始などの行事が行われたほか、学問ばかりでなく遊興の場としても用いられた。また、新政府樹立宣言した王政復古の大号令」は、慶応3年12月9日1868年1月3日)に天皇出御のうえ御学問所で発せられた。内部東西2列、各列3室の6室構成になる。東列は北から南へ上段の間」、「中段の間」、「下段の間」とし、西列は北から南へ菊の間」、「山吹の間」、「雁の間」とする。上段の間菊の間には床と違棚設ける。各室の障壁画は、狩野永岳岸岱原在照らの筆になる。東列の表向きの諸室には中国故事画題とした漢画描かれ内向き部屋である西列の諸室には大和絵草花描かれている。また、御学問所の御鈴廊下挟んで西南側には「八景の間」という殿舎存在する御常御殿御学問所北東位置する東西棟の建物で、天皇日常生活の場として用いられた。屋根入母屋造檜皮葺紫宸殿とともに御所内で最大建物である。平安時代には清涼殿天皇居所あてられていたが、近世になって御常御殿別に建てられるようになってからは、こちらが天皇居所となり、清涼殿儀式の場となった御常御殿清涼殿のような復古調ではなく書院造基調とした建物であり、内部前後3列に部屋配し、計15室に分かれている。最前列には西から下段の間」、「中段の間」、「上段の間」があり、これらは儀式などの行われた表向きの室である。下段の間中段の間、上段の間の順に床高一段ずつ高くなっているが、これら3室の境には2本ずつが立つのみで、間仕切りの壁や襖はない。上段の間の東、帳台構の奥には「剣璽の間」がある。ここはかつて清涼殿夜御殿置かれていた、三種の神器のうちの剣と勾玉置かれていた部屋である。上段中段下段の間障壁画は、中国故事題材したもので、帝鑑図と呼ばれる為政者への戒めとしての画題選ばれており、濃彩謹直筆法描かれている。画の筆者上段狩野永岳中段鶴沢探真、下段座田重就さいだしげなり)である。剣璽の間には土佐光清花鳥図描いている。剣璽の間の東裏には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物東面から北面にかけて、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の間」が並ぶ。これらは内向き部屋で、御小座敷読書始などの内々行事対面用いられ、一の御間、二の御間、三の御間次の間天皇日常生活の場であった御小座敷下の間の南、建物南東端には、簀子縁張り出す形で「落長押の間」がある。建物西北部位置する「申口の間」(南北の2室)は女官伺候した部屋である。これらの諸室に囲まれた、中央部には、外部面していない「御寝の間」、「御清間」の2室がある。御常御殿は以上の15室で構成される御寝の間の西にある「中仕切の間」を含めれば16室)。内向きの諸室の障壁画は、前述狩野永岳鶴沢真のほか、土佐派円山派などの絵師よるもので、日本の四季風景花鳥題材したものである。 御三間(おみま)は御常御殿南西接す東西棟の小さな建物で、上段中段下段の3室からなり涅槃会茅輪七夕盂蘭盆などの行事がここで行われた御常御殿北側には迎春こうしゅん)、御涼所おすずみしょ)、聴ちょうせつ)、御花御殿(おはなごてん)、参内殿さんないでん)、長橋局ながはしつぼね)、奏者所(そうしゃどころ)など、いくつかの殿舎比較小規模な建物現存する迎春孝明天皇書見勉強)の場として建てさせた、入母屋造檜皮葺南北棟の建物で、御常御殿の北に位置する10畳の「南の間」と、変形5畳半の「北の間」からなる小規模簡素な建物である。塩川文麟襖絵描いている。 御涼所迎春の北に接続する入母屋造檜皮葺東西棟の建物で、京都暑い夏快適に過ごすことを主眼とした建物であり、窓を多く設けている。内部は北が9畳の「上の間」、南が7畳半の「次の間」で、上の間の西に4畳半の「裏上の間」がある。上の間には床(とこ)と違棚、裏上の間には床を設ける。上の間では床と挟まれた壁の腰の位置に窓を設けるなど、通風意を用いている。 聴他の建物よりやや遅れて安政4年1857年)に孝明天皇好み建てられたもので、寄棟造杮葺数寄屋造建築である。御涼所と聴の間は、「吹抜廊下」と称する、壁がなく吹きさらしの簡素な廊下つないでいる。聴内部東から西へ「上の間」、「中の間」、「下の間」がある。中の間床脇とこわき)の地袋の戸に描かれ鸚鵡(おうむ)と果物籠の図は呉春の筆である。 以上の建物群のさらに北、御所敷地北端はかつての後宮所在地であり、すでに多く建物失われているが、皇后御常御殿若宮姫宮御殿飛香舎などの建物残っている。 皇后御常御殿皇后居所として用いられた、入母屋造檜皮葺東西棟の建物である。御常御殿と同様、建物内細かく間仕切りされて13室に分かれ部屋用途と格に応じて障壁画の画題選ばれている。建物東面から南面にかけて鍵の手に並ぶ「御上段」、「御中段」、「御下段」の3室はもっとも格式の高い部屋であり、中国有徳女性にかかわる故事題材にした「列女伝」の障壁画描かれている。建物北東には「御小座敷下の間」、「御小座敷上の間」があり、建物中央部には外部面していない「御寝の間」がある。御寝の間の北側から西側にかけて「御化粧の間」、「一の御間」、「二の御間」、「三の御間」、「次の御間」が並び、三の御間次の御間西側には南北2室の「申口の間」がある。 皇后御常御殿から渡廊下北へ進むと、右手に「御黒戸」(仏間)があり、その先坪庭の「藤壺」を隔てて西に若宮姫宮御殿、北に飛香舎がある。 若宮御殿姫宮御殿一つ建物で、東が若宮御殿、西が姫宮御殿である。両御殿とも、東に「御上段」、西に「次の間」があり、これらの手前は若宮御殿姫宮御殿通して一続きの「御縁座敷となっている。 飛香舎平安京の内裏存在した五舎一つで、女官入内儀式がここで行われた五舎とは飛香舎藤壺)、凝花舎梅壺)、襲芳舎雷鳴壺)、昭陽舎梨壺)、淑景舎桐壺)を指す。これらは長らく姿を消していたが、寛政造営時に飛香舎のみが平安様式復活し安政造営でもこれを踏襲したもので、現存する京都御所建物の中では、もっともよく平安時代様式伝えている。建物東西棟の入母屋造檜皮葺で、内部身舎南・東・北に廂を設け、東廂の東にさらに孫廂がある。孫廂の手前には渡廊(わたろう)が接続する身舎と南廂は仕切りのない1室とする。内部円柱板敷の床などに寝殿造意匠がみられ、中央御帳台を置く。飛香舎北東には玄輝門があり、これも平安時代内裏にあった門の名前を引き継ぐのである。ただし、平安時代には玄輝門真北内裏全体北門である朔平門があったが、現在の京都御所では、スペースの関係で両門の位置関係がずれており、玄輝門朔平門よりも東寄り建てられている。 春興殿は、平安京内裏十七殿の一。現在も同名殿舎があるが、平安時代の頃の春興殿とは、位置関係異なり安政年間造営され内侍所賢所)のあった場所に大正天皇即位礼にあたり造営された。大正・昭和両天皇の即位礼では、東京から三種の神器京都御所遷す必要があり、その際賢所として使用された。東京皇居京都御所の間を、宮中三殿賢所祀られている神鏡輸送するために賢所乗御車呼ばれる特殊客車製造されたが、これは「神」輸送対象とする世界的に類例がないと思われる極めて珍しい車両である。

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その他の建物

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 23:39 UTC 版)

瑞龍寺 (高岡市)」の記事における「その他の建物」の解説

神社(2社) 神仏習合時代より瑞龍寺にあった神社。「昭和・平成の大修理」のため、他所に移設したもの2020年令和2年7月敷地内戻した。もともと2つの社と鎮守堂があったが、鎮守堂高岡市内にある赤祖父神社明治初期売却2つの社は瑞龍寺境内残されていた。再移設にともない、社の修復とともに2つの社を納める木造の、幅5.5m、奥行き約3.7m、高さ約5m覆屋(おおいや)を新築した瑞龍寺文化財保存館 伽藍外側大茶堂北側位置する通常一般公開ていないが、宝物展などが開催された際に公開されることがある

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