現存する建物
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「フォート・インディペンデンス (マサチューセッツ州)」の記事における「現存する建物」の解説
1833年、港湾防衛局により、軍事工学の第一人者であったシルヴァナス・タイアー大佐の管理で現在の建物の建築が始まった。高さ30フィート (9.1 m)、厚さ5.5フィート (1.7 m)の壁が建てられることとなった。主にマサチューセッツ州ロックポートの花崗岩を使用し、1851年に完成した。19世紀半ばの南北戦争では射程距離3マイル (4.8 km)以上の15インチのロッドマン・ガンなどの大砲96台を積むのに耐えうる高さと強度を兼ね備えていた。 1861年に南北戦争が勃発し、フォート・インディペンデンスはマサチューセッツ志願民兵第4部隊が配属された。歩兵や大砲の訓練をし、第24部隊の中心部を結成した。南北戦争中、第11部隊および第13部隊の少なくとも2部隊がここで訓練した。 南北戦争後、同じくタイアーが監督した、より大きなフォート・ウォレンが完成し、フォート・インディペンデンスは次第に使われなくなっていった。1880年代、造園家のフレデリック・ロー・オルムステッドは「エメラルド・ネックレス」と呼ばれるパークウェイや公園などを設計した。オルムステッドは東の新たな土手を通りキャッスル・アイランドと接続するパークウェイとなるドーチェスターウェイがエメラルド・ネックレスと繋がる計画を立てた。ドーチェスターウェイは実現しなかったが、1890年代、ボストンはフォート・インディペンデンスを公園にする大計画を立てた。1890年、砦を除くキャッスル・アイランドは国から譲渡された。ボストン市はキャッスル・アイランドをサウス・ボストンから隔てている湿地帯の埋め立てを開始し、緑地帯や散歩道を造ることとした。1920年に完成し、キャッスル・アイランドは島ではなくなった。1908年、砦は連邦政府からボストン市に譲渡された。 1898年、米西戦争の間、アメリカ政府は短期間キャッスル・アイランドを取り戻したが、1899年にはボストンに返還された。第一次世界大戦および第二次世界大戦の間、再び民兵がフォート・インディペンデンスに留まり、高射砲が設置された。砦は第一次世界大戦中は主要な銃弾庫、第二次世界大戦中はアメリカ海軍の消磁局として使用された。戦後はボストンに返還された。 1962年、アメリカ政府はキャッスル・アイランドとフォート・インディペンデンスを恒久的にマサチューセッツ州に譲渡した。現在州公園局および非営利団体キャッスル・アイランド協会が管理している。ちなみにこの長い歴史の中で、実戦でアメリカ軍によりフォート・インディペンデンスから砲撃が行われたことは1度もない。
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現存する建物
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山梨県庁舎(現・別館)および県議会議事堂 罹災地内にあったが甲府城城址に隔てられたおかげもあり焼失を免れている。 県庁舎は1963年(昭和38年)に新庁舎が竣工後も別館となったが、議事堂と共に現在も当時の面影を残したまま使用されている。罹災地である甲府市中心部では数少ない戦前からの建築物になっている。
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現存する建物
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現存する建物はA棟、B棟、C棟の3棟。大きさは、床面積1階(A・B・C棟計)2,256.07m2、2階(A・B棟計)1,677.86m2、延べ床面積3,933.93m2である。建物の最高高さは15.63m。各建物について、建築年代、建物の構造、特徴などを下記に記載する。A棟(3棟のうち中央に位置する建物) 建築年代:大正12年(1923年)頃 建物の構造:煉瓦造(一部木造・鉄骨造)2階建 建築的特徴: 鉄板葺の切妻屋根で、屋根部分は木造のトラス構造で造られた洋小屋組が用いられている。骨組みを構成する三角形の3辺に力を分散させることができるため、柱が不要となる大空間を実現している。 1階には、シードル工場時代の名残で、床がタイル張りの3つに区分けされた空間がある。2階には、事務室や研究室、培養室などの小部屋と、中央に間仕切りが残されている。 窓ガラスの一部には、口吹きガラスと呼ばれる、職人が口で吹いて手作りで制作した表面に凹凸のあるガラスが残っており、窓の景色が独特にゆらいで見える。 屋根の頂きには、転落防止のためにロープを結ぶことなどを目的とする、小さい丸い金具が、等間隔に取り付けられている。 B棟(A棟とL型に棟続きになっている建物) 建築年代:大正12年(1923年)頃 建物の構造:煉瓦造(一部木造・鉄骨造)2階建 建築的特徴: 鉄板葺の切妻屋根で、屋根部分は鉄骨のトラス構造で造られた洋小屋組が用いられている。2階には幅約20m×奥行き約60mの無柱空間が広がっている。1階も、2階同様の大空間だが、2階の床を支えるための鉄骨柱が中央の南北方向に等間隔で並んでいる。柱と梁はリベットにより接合されており(リベット接合は、現在では建築にはほとんど用いられることがない)、建築当時にあった窓は現在はすべて埋められている。1階の壁は、全面にタールが塗られており、特徴的な黒い壁となっている。煉瓦 - 籾殻(断熱) - アルミ箔(遮熱) - 木の順に層をなし、断熱や防虫対策が入念に施されていた。 屋根上には、ベンチレーターが2基あり、小屋裏の換気装置の役目を果たしていた。また、頂きには、A棟と同様に小さな丸い金具が、等間隔に取りつけられている。 C棟(3棟のうち北側に位置する建物) 建築年代:明治40年(1907年)以降 建物の構造:木造平屋建、土蔵造 建築的特徴: 瓦葺の切妻屋根で、小屋組は、在来工法の和小屋組となっており、屋根葺材には、雪国弘前では珍しい和瓦が使われている。 妻面のみが煉瓦によって作られているが、かつて西側に存在した煉瓦造の建物に接続させる形でこの棟が建てられ、そののち元々あった建物が解体されたものと推測される。 A・B・Cの3つの棟は、木造の渡り廊下でつながっていたが、改修工事の段階で解体が行われた。 煉瓦積みの特徴 最も堅実で合理的とされるイギリス積み(長手積みの段と小口積みの段を交互に積み重ねる積み方)が採用されている。(A棟、B棟、C棟妻面) 窓の上部には小口積みが見られ、また入り口上部には扇形の変形レンガをアーチ状に並べて装飾している箇所も見られる。
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現存する建物
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陣屋の大手門が浄土真宗西本願寺派新潟別院に明治維新後、移築されている。また切手門が恩行寺に移築され、両方とも長岡市の指定文化財に指定されている。また、冠木門は1997年に陣屋跡に建つ与板ふれあい交流センター内に復元されている。
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現存する建物(現在、閉鎖中の建物も含む)
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「世界首都ゲルマニア」の記事における「現存する建物(現在、閉鎖中の建物も含む)」の解説
ベルリン・オリンピアシュタディオン(1936年完成) 航空省庁舎(de:Detlev-Rohwedder-Haus) - 途中から、ゲルマニア計画の一部に組み込まれる。現在は、連邦財務省ビル。 国民啓蒙・宣伝省庁舎 - 戦後は東ドイツ政府庁舎を経て、現在は連邦労働社会省が入居。 ライヒスバンクビル - 東ドイツ時代は支配政党の社会主義統一党本部。現在は外務省の一部庁舎。 ヘルマン・ゲーリング街 - 現在のゲルトルート・コルマー街。 戦勝記念塔 - 国会議事堂前の広場からティーアガルテン中央部へ移転。 在ドイツ日本大使館(1942年完成) - 戦後は西ドイツの首都がボンになったこともあり、長い間使用されずに放置されていた。1985年より壁面保存の形で修復されてベルリン日独センターとして使用後、首都機能のベルリンへの復帰に伴い、再度増改築の上で2001年より再び日本大使館として使用されている。 テンペルホーフ空港公園(旧ベルリン・テンペルホーフ国際空港) - 本館ターミナル部分はゲルマニア計画に基づき設計(担当:エルンスト・ザーゲビール)・建築され、戦後から2008年10月31日の閉鎖までそのまま活用された。 在ドイツイタリア大使館(ドイツ語版)(1930年完成) - 1943年に閉鎖された後に長らく放置されていたが、修復を加えて2003年に再開。 フェーアベリナー広場周辺のビル - オフィスビルに活用。 ベルリン・オリンピアシュタディオン ドイツ航空省庁舎 ライヒスバンク 在ドイツ日本大使館 旧ベルリン・テンペルホーフ国際空港 在ドイツイタリア大使館(ドイツ語版) フェーアベリナー広場近くのビル
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現存する建物
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/25 04:23 UTC 版)
旧藩邸の大半は大正初年に京都相国寺の塔頭林光院として現存。 旧藩邸の勘定部屋は町内に移築。現在大字西大路衆議所として使用。 市橋家の菩提寺である清源寺書院は文久元年の新築前の藩邸の一部を移築。 大字西大路聖財寺、法雲寺も藩邸の一部が移築または部材が転用されている伝承がある。
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