閉鎖まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/09 05:04 UTC 版)
1920年10月2日、第2次琿春事件(間島事件)が起き、中国人の馬賊が琿春の日本領事館を破壊し、日本人13人と朝鮮人7人を射殺した。 1922年6月28日には、朝鮮人独立運動家が間島頭道溝の日本領事館分館を破壊して独立運動家を脱走させる(頭道溝事件)。日本人2名が死亡し、3名が重傷を負った。7月12日に日本は警官300名を派遣する。9月、北京政府の外交部は、間島における日本の警察力拡大に抗議するなど、緊張が高まった。 1922年11月27日、龍井の間島日本総領事館で火災が発生する。このため、総領事館が再建され、1926年5月に竣工した(現在は龍井市人民政府の庁舎)。 1927年から1930年には、治安維持法によって朝鮮共産党関係者を検挙する「間島共産党事件」が五度にわたって起きた。1930年12月、間島領事館は警官を45名に増員した。 1932年に日本の関東軍によって満州国が建国されると、間島の地位は新たな局面を迎えた。第5次間島共産党事件(間島共産党暴動)に際して、朝鮮側の司法に不信感を持っていた領事館は、残存していた間島の治外法権を将来は撤廃すべきだとも主張した。 1934年12月、満州国政府は、吉林省に属していた延吉県、汪清県、和龍県、琿春県の4県に奉天省に属していた安図県を加え間島省を創設。図們市は延吉県から分離独立し、図們に間島日本領事館分館が新設された。 1937年、間島に対する治外法権が撤廃される。1938年3月11日、間島日本総領事館のほか、通化、敦化、図們の各分館を閉鎖し、在間島日本総領事館延吉分館を領事館に昇格させた。これにより、間島日本総領事館は開設から29年で閉鎖された。
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