東ドイツ時代 (VEB Carl Zeiss Jena)
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「イエナオプティック」の記事における「東ドイツ時代 (VEB Carl Zeiss Jena)」の解説
1946年 - 10月4日に西ドイツ・オーバーコッヘンにて Opton Optische Werke Oberkochen GmbH の設立。一方、10月22日には東ドイツ・イエナではソビエトによるイエナの工場の解体が決定、92%が解体される。約245名の従業員はソビエト・レニングラード(現:サンクトペテルブルク)へ強制連行され、ソビエトでの光学産業の設立に携わる。 1947年 - 東ドイツ・イェーナにて VEB Carl Zeiss Jena の設立、戦前のツァイスの人事担当者だったヒューゴ・シュラーデ(ドイツ語版)が責任者に任命される。これにより、カールツァイスが東西ドイツで分裂。 1953年3月 - 東西分裂後も互いの交流はあったが、3月には、過去に西ドイツ・オーバーコッヘンの従業員と共同作業に携わっていた東ドイツ・イエナの従業員15人がスパイとして逮捕される。東ドイツ政府により交流も打ち切る。 10月 - 西ドイツにてCarl Zeiss の商標が登録される。翌年より東西ドイツで Carl Zeiss のロゴで訴訟合戦が始まる。 1954年 - VEB Carl Zeiss Jena にて製造された最初のプラネタリウムが、旧ソ連のスターリングラード(現:ヴォルゴグラード)に設置される。 1955年 - 東ドイツ初のコンピュータ OPREMA が開発される。レンズ設計用に使われる。その後1961年には量産用コンピュータ ZRA 1 を発表する。 1960年 - プラネタリウム Universal23/3 が明石市立天文科学館に設置される。現在も使用されている。なお、現在稼動しているプラネタリウム投影機の中では、日本で一番古いものである。 1971年 - 18年に及ぶ係争を経て、"Zeiss(ツァイス)"の名前またはそれを含む企業ロゴの使用について2社の間で「ロンドン合意」が取り交わされる。お互い輸出の際、西ドイツのカール・ツァイスは東側諸国では "Opton" のロゴを使用。東ドイツのカール・ツァイスは西側諸国では "Jenoptik" "aus Jena" のロゴを使用することとなる。 1975年 - ヴォルフガング・ビアマン(ドイツ語版)が責任者に任命される。1989年まで務める。彼はドイツ社会主義統一党の中央委員会のメンバーでもあった。 1976年 - ソビエト連邦の衛星ソユーズ22号にマルチスペクトラルカメラ MKF 6 が採用になる。 1980年 - スポーツ大会向けの距離、高さを測定する機器がモスクワオリンピックで採用になる。 1981年 - サッカーチーム FC Carl Zeiss Jenaが、1981年の UEFA カップウィナーズカップで準優勝する。 1984年 - スポーツ大会向けの距離、高さを測定する機器がロサンゼルスオリンピックでも採用になる。 1988年 - スポーツ大会向けの距離、高さを測定する機器がソウルオリンピックでも採用になる。 1989年 - ベルリンの壁崩壊。その時点で VEB Carl Zeiss Jena は25拠点、60000人の雇用を抱えるまで成長していた。
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