東西分裂後
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5世紀のうちに、西ローマ帝国はいわゆるゲルマン人の侵略を受けた。イタリア道は東ゴート王国が保有していたが、法令上はなお帝国の一部であり、東ゴート王テオドリックは510年に征服したガリアの一部にガリア道を再建した。アフリカ方面は、東ローマ帝国がヴァンダル戦争(533年 - 534年)を経て奪回した後、ユスティニアヌス1世によって属州が新たにアフリカ道へとまとめられた。アフリカ道は後にアフリカ総督府に再編される。同様にイタリア道も、ゴート戦争(534年 - 554年)に勝利した後に再建され、ラウェンナ総督府へと発展した。 東ローマでは、ウマイヤ朝の侵入で東方属州の大半を失陥し、スラヴ人の侵入によってバルカン半島を失い、テマ制が導入されることとなった7世紀半ばまで、道は機能し続けた。しかしそれまでの間に、道長官はヘラクレイオスの改革によって、傘下の財務局の一部を奪われ、ロゴテテス (Logothete) の下で独立した部局となっていた。 道という行政区画の終焉は、629年の法によって直接証明されている。ただし、一部の研究者によればシステムの痕跡は9世紀まで存続したという。エルンスト・シュタインは、イリュリクム道のいくつかの面はテッサロニキの統治に生きていたと論証している。また、ジョン・ハルドンは印章学 (Sigillography) 上の証拠とタクティカ (Tactica) の記述に基づき、840年代までのテマ制の初期の文官の属州統治の中に道のシステムは存続していたと立証している。
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東西分裂後
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西カラハン朝はサマルカンドを首都に定め、11世紀にアッバース朝のカリフの権威を承認した。西カラハン朝の支配者は当初ウズガンド(ウズゲン)に居住していたが、権力を強化した後にサマルカンドに宮廷を移し、ウズガンドはフェルガナの統治者の本拠地とされた。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフルの支配者を自称していたが、フェルガナはサマルカンドから半ば独立した状態にあった。 東カラハン朝は草原地帯のテュルク・ムスリムの軍事力によってフェルガナ盆地のオアシス都市を支配し、その経済力は天山山脈の南北に及んでいた。ユースフの死後、東カラハン朝はベラサグン、カシュガル、ホータンを支配する大ハン、タラスを支配する小ハンの領土に分裂する。1055年頃、タラスを支配するムハンマド1世・ボグラ・ハンは大ハンが領有するカシュガルを獲得した。ムハンマド1世はカシュガルを文化都市に発展させ、東カラハン朝からは教訓書『クタドゥグ・ビリグ』やトルコ語の辞典『トルコ語集成』などの作品が生み出された。11世紀末に東カラハン朝はアフマド・ボグラ・ハンによって再統一され、彼の治世に『クタドゥグ・ビリグ』が著される 11世紀初頭にオグズの一派がイランで興したセルジューク朝が1040年にダンダーナカーンの戦いでガズナ朝を破り、勢力を広げた。当初カラハン朝はセルジューク朝の攻撃に耐え、セルジューク朝の支配下に置かれていたホラーサーン地方の都市を占領する。1072年にマー・ワラー・アンナフルはセルジューク朝の攻撃を受け、西カラハン朝のナスル1世はセルジューク朝に臣従を誓った。アフマド1世の治世の1089年、政府と対立するマー・ワラー・アンナフルのウラマー(イスラームの神学者)の要請に応じて西カラハン朝を攻撃したセルジューク軍はサマルカンドを占領し、西カラハン朝はセルジューク朝の支配下に置かれた。アフマド1世はセルジューク朝から支配権を回復したものの、1095年にウラマーによって異端と宣告され、処刑された。およそ半世紀の間、西カラハン朝はセルジューク朝に臣従し、大部分の君主はセルジューク朝によって選ばれた。 東カラハン朝はセルジューク朝がタラス、セミレチエに侵攻した後にセルジューク朝への臣従を表明したが、臣従の期間はごく短かった。1102年に東カラハン朝の王統に連なる西カラハン朝の君主ジブラーイールはセルジューク朝が支配するホラーサーン地方に侵入するが、この地を治める王子サンジャルによってテルメド近郊の戦いで殺害される。1130年にハサン、1132年にマフムード2世を王位に就けた。 12世紀前半の中国北部では女真族の建国した金が契丹族の国家遼に取って代わり、遼の王族耶律大石に率いられた一団は中国から中央アジアに移住してカラ・キタイ(西遼)を建国した。東カラハン朝のアフマド・ハンは東トルキスタンの横断を試みたカラ・キタイ軍を破り、耶律大石は進路を天山山脈北方に変更する。ベラサグンを支配するカラハン朝の王族が耶律大石に援軍を求めた後、ハンの敵を破った耶律大石はベラサグンを奪い、この地でグル・ハンを称した。1137年に西カラハン朝の君主マフムード2世はホジェンド付近の戦闘でカラ・キタイの軍に敗れ、マフムードは叔父であるセルジューク朝のスルターン・サンジャルに助けを求めたが、1141年のカトワーンの戦いでセルジューク朝・カラハン朝の連合軍はカラ・キタイに敗北する。東カラハン朝とカラ・キタイの戦闘に関する記録は残されていないが、アフマドの子イブラーヒーム2世は殉教者(Shahīd)の名前で呼ばれていることからカラ・キタイとの戦闘で落命したと考えられている。臣従を認めさせて貢納を徴収するカラ・キタイの間接統治策の下、東カラハン朝はカラ・キタイの王位を簒奪したナイマン部族のクチュルクに滅ぼされ、西カラハン朝は1212年にホラズム・シャー朝に滅ぼされるまで存続した。
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