東西分裂後とは? わかりやすく解説

東西分裂後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/06 10:19 UTC 版)

道 (ローマ帝国)」の記事における「東西分裂後」の解説

5世紀のうちに、西ローマ帝国いわゆるゲルマン人侵略受けたイタリア道は東ゴート王国保有していたが、法令上はなお帝国一部であり、東ゴートテオドリック510年征服したガリア一部ガリア道を再建したアフリカ方面は、東ローマ帝国ヴァンダル戦争533年 - 534年)を経て奪回した後、ユスティニアヌス1世によって属州新たにアフリカへとまとめられた。アフリカ道は後にアフリカ総督府再編される。同様にイタリア道も、ゴート戦争534年 - 554年)に勝利した後に再建され、ラウェンナ総督府へと発展した東ローマでは、ウマイヤ朝侵入東方属州大半失陥し、スラヴ人侵入によってバルカン半島失いテマ制導入されることとなった7世紀半ばまで、道は機能し続けた。しかしそれまでの間に、道長官はヘラクレイオス改革によって、傘下財務局一部奪われ、ロゴテテス (Logothete) の下で独立した部局となっていた。 道という行政区画終焉は、629年の法によって直接証明されている。ただし、一部研究者によればシステム痕跡9世紀まで存続したという。エルンスト・シュタインは、イリュリクム道のいくつかの面はテッサロニキ統治生きていたと論証している。また、ジョン・ハルドンは印章学 (Sigillography) 上の証拠とタクティカ (Tactica) の記述に基づき840年代までのテマ制初期文官属州統治中に道のシステム存続していたと立証している。

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東西分裂後

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 22:01 UTC 版)

カラハン朝」の記事における「東西分裂後」の解説

西カラハン朝サマルカンド首都定め11世紀アッバース朝カリフ権威承認した西カラハン朝支配者当初ウズガンド(ウズゲン)に居住していたが、権力強化した後にサマルカンド宮廷移し、ウズガンドはフェルガナ統治者本拠地とされた。西カラハン朝は全マー・ワラー・アンナフル支配者自称していたが、フェルガナサマルカンドから半ば独立した状態にあった東カラハン朝草原地帯のテュルク・ムスリムの軍事力によってフェルガナ盆地オアシス都市支配し、その経済力天山山脈南北及んでいた。ユースフ死後東カラハン朝ベラサグンカシュガルホータン支配するハンタラス支配するハン領土分裂する1055年頃、タラス支配するムハンマド1世・ボグラ・ハンは大ハン領有するカシュガル獲得したムハンマド1世カシュガル文化都市発展させ、東カラハン朝からは教訓書『クタドゥグ・ビリグ』やトルコ語辞典トルコ語集成』などの作品生み出された。11世紀末に東カラハン朝はアフマド・ボグラ・ハンによって再統一され、彼の治世に『クタドゥグ・ビリグ』が著される 11世紀初頭オグズ一派イラン興したセルジューク朝1040年ダンダーナカーンの戦いガズナ朝破り勢力広げた当初カラハン朝セルジューク朝攻撃に耐え、セルジューク朝支配下置かれていたホラーサーン地方都市占領する1072年マー・ワラー・アンナフルセルジューク朝攻撃を受け、西カラハン朝ナスル1世セルジューク朝臣従誓ったアフマド1世治世1089年政府対立するマー・ワラー・アンナフルウラマーイスラームの神学者)の要請に応じて西カラハン朝攻撃したセルジューク軍はサマルカンド占領し西カラハン朝セルジューク朝支配下置かれた。アフマド1世セルジューク朝から支配権回復したものの、1095年ウラマーによって異端宣告され処刑された。およそ半世紀の間、西カラハン朝セルジューク朝臣従し、大部分君主セルジューク朝によって選ばれた。 東カラハン朝セルジューク朝タラスセミレチエ侵攻した後にセルジューク朝への臣従表明したが、臣従の期間はごく短かった1102年東カラハン朝王統連なる西カラハン朝君主ジブラーイールはセルジューク朝支配するホラーサーン地方侵入するが、この地を治め王子サンジャルによってテルメド近郊戦いで殺害される1130年ハサン1132年マフムード2世王位就けた12世紀前半中国北部では女真族建国した金が契丹族国家に取って代わり、遼の王族耶律大石率いられ一団中国から中央アジア移住してカラ・キタイ西遼)を建国した。東カラハン朝アフマド・ハン東トルキスタン横断試みたカラ・キタイ軍を破り耶律大石進路天山山脈北方変更するベラサグン支配するカラハン朝王族耶律大石援軍求めた後、ハンの敵を破った耶律大石ベラサグン奪い、この地でグル・ハン称した1137年西カラハン朝君主マフムード2世ホジェンド付近戦闘カラ・キタイの軍に敗れマフムード叔父であるセルジューク朝のスルターン・サンジャルに助け求めたが、1141年カトワーンの戦いセルジューク朝カラハン朝連合軍カラ・キタイ敗北する東カラハン朝カラ・キタイ戦闘に関する記録残されていないが、アフマドの子イブラーヒーム2世殉教者Shahīd)の名前で呼ばれていることからカラ・キタイとの戦闘落命したと考えられている。臣従認めさせて貢納徴収するカラ・キタイの間接統治策の下、東カラハン朝カラ・キタイ王位簒奪したナイマン部族のクチュルク滅ぼされ西カラハン朝1212年ホラズム・シャー朝滅ぼされるまで存続した。

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