東西制第2期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/03 06:25 UTC 版)
幕内は東西に分かれたが、頻繁に配置換えが行なわれた。そのため、出羽一門に所属していた陣幕部屋の青葉山徳雄は、両方の側に属して、ほとんどすべての部屋の力士と対戦している。また、高砂系、朝日山部屋や伊勢ヶ濱部屋も配置換えがあり、同じ部屋で東西に別れることもあった。当然、この場合、方屋が違っても、同じ部屋や同じ系統は対戦しない。 1940年5月場所、横綱男女ノ川登三は、相手方の横綱双葉山などが途中休場したために、対戦相手を繰り下げることになった。ところが、相手方に同じ高砂系の、富士ヶ嶽(富士ヶ根部屋)・鯱ノ里(若松部屋)がいたため、この二人を避けてなおも繰り下げたため、すでに7敗して負け越し目前の新入幕、二瀬川政一(朝日山部屋)を13日目に対戦させることになってしまい、二瀬川は負け越してしまった。一方上位力士にとっては、部屋や系統が異なる同じ方屋の上位力士と当たらないため有利な制度であったといえる(男女ノ川の例では、系統別総当たりなら同じ方屋の出羽海系上位力士と当たるところ、東西制に助けられて相手方の平幕と当たったことになる)。横綱照國が双葉山との初対戦が大関昇進後だったという逸話は東西制ならではのものであった。 十両以下では、この時期に双葉山道場が立浪部屋から独立し、色々な部屋を吸収したことで対戦分野に変動が起きた。双葉山は、立浪部屋から内弟子を連れて独立したために、立浪部屋と双葉山道場との間の対戦は組まれなかった。そのために、同時に引き取った粂川所属の力士たちも、立浪部屋との対戦がなくなった。当時十両にいた布引国太郎は、粂川所属のときは、立浪部屋の力士と対戦していたが、その対戦がなくなった。 なお、この時期には系統別第1期には同じ系統扱いされていた、粂川と二所ノ関・二子山は別扱いとされ、布引は照ノ海照光(二所ノ関)・鏡川四郎(二子山)と対戦している。また、1944年に井筒親方が急逝し、力士たちは双葉山道場に引き取られたが、この時、井筒部屋所属だった鶴ヶ嶺道芳は、立浪部屋の緑國政雄と対戦している。 この時期に、かつては対戦していた間柄の部屋が、合同し、対戦がなくなったケースとして、他に次のようなものがある。(右側が消滅した部屋) 出羽海と三保ヶ関 双葉山と井筒 立浪と春日山 高砂と花籠 伊勢ヶ濱と鏡山
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