東西取合合戦
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政則の遺志を汲んだ形で義村の後継を支持した重臣たちであったが、明応8年(1499年)には赤松氏の後継をめぐって3派に分裂した状態に入る事になる(東西取合合戦)。まず1つ目が従来通り義村を支持する派閥、2つ目は新たに赤松勝範(赤松播磨守、大河内殿)を擁立しようと目論む派閥、そして3つ目が洞松院を支持した則治の派閥であった。 この騒乱は勝範のクーデターとも言うべき事件で、義村の後見人として権勢を振るう浦上則宗の存在を快く思わない浦上村国らが勝範に味方し軍事力を行使して則宗を追い詰めたが、一方で則治は幼い義村がこのまま継ぐ事は則宗の更なる専横に繋がりかねず、義村に全権を委ねるのは時期尚早であると見ており、細川政元との結びつきを後ろ盾として義村が成長するまでの暫定的な措置として洞松院を推したのである。 結局の所、3派に属さず沈黙を保っていた宇野政秀・赤松則貞親子が義村派に回り、大河内派を攻撃して圧力をかけた上で幕府に調停を依頼し収拾が付き、赤松勝範の家督簒奪は失敗した。 ただ、則治の推した洞松院の権勢もこの後に大幅に向上を見せ、洞松院の発給書状が確認できるようになり、則治の影響力の強さが垣間見える。
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東西取合合戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 01:19 UTC 版)
明応5年(1496年)に政則が没すると養子で幼い義村が継いだが、政則の継室である洞松院は義村を無視して権勢を振るい、浦上則宗も義村を蔑ろにして専横を極めるようになった。これに対して則宗の同族の浦上村国が則宗に反発して対抗し、その混乱に乗じて東播磨の別所則治が独自の動きを見せ始めた。こうして赤松氏は三分された。 明応8年(1499年)、村国の猛攻によって則宗は敗退(東西取合合戦)、宇喜多能家の奮迅によって辛うじて撤退し、義村を連れ政秀の塩屋城に逃げ込むと、政秀は義村を擁した則宗を匿って田路左京亮に村国を攻めさせ、自身は上洛して幕府にかけあい、11代将軍・足利義澄の停戦令を得て和睦を整えた。こうして家中の内乱を終結させると、3年後の文亀2年(1502年)10月25日に死去。享年は81とされる。
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