東西取合合戦とは? わかりやすく解説

東西取合合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/26 02:09 UTC 版)

別所則治」の記事における「東西取合合戦」の解説

政則の遺志汲んだ形で義後継支持した重臣たちであったが、明応8年1499年)には赤松氏後継めぐって3派に分裂した状態に入る事になる(東西取合合戦)。まず1つ目が従来通り支持する派閥2つ目は新たに赤松勝範(赤松播磨守大河内殿)を擁立しようと目論む派閥、そして3つ目が洞松院支持した則治の派閥であった。 この騒乱は勝範のクーデターとも言うべき事件で、義後見人として権勢を振るう浦上則宗存在快く思わない浦上村国らが勝範に味方し軍事力行使して則宗追い詰めたが、一方で則治は幼い義このまま継ぐ事は則宗更なる専横繋がりかねず、義全権委ねるのは時期尚早であると見ており、細川政元との結びつき後ろ盾として義成長するまでの暫定的な措置として洞松院推したのである結局の所、3派に属さず沈黙保っていた宇野政秀赤松則貞親子が義派に回り大河内派を攻撃して圧力をかけた上で幕府調停依頼し収拾付き赤松勝範の家督簒奪失敗した。 ただ、則治の推した洞松院権勢この後大幅に向上を見せ洞松院発給書状確認できるようになり、則治の影響力強さ垣間見える

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東西取合合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/09 01:19 UTC 版)

宇野政秀」の記事における「東西取合合戦」の解説

明応5年1496年)に政則が没する養子で幼い義継いだが、政則の継室である洞松院は義無視して権勢振るい浦上則宗も義蔑ろにして専横を極めるようになった。これに対して則宗同族浦上村国が則宗反発して対抗し、その混乱乗じて播磨別所則治が独自の動き見せ始めた。こうして赤松氏三分された。 明応8年1499年)、村国猛攻によって則宗敗退(東西取合合戦)、宇喜多能家奮迅によって辛うじて撤退し、義連れ政秀の塩屋城に逃げ込むと、政秀は義擁した則宗を匿って田路左京亮村国攻めさせ、自身上洛して幕府かけあい11代将軍・足利義澄の停戦令を得て和睦整えた。こうして家中内乱終結させると、3年後文亀2年1502年10月25日死去享年81とされる

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