東西分裂以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 16:18 UTC 版)
明治14年(1881年)6月25日、公式の宗派名を「真宗大谷派」と定める。当時の法主は第二十一代 嚴如。 明治16年(1883年)9月、「大谷派寺法」を制定する。法主が本山本願寺の住職と真宗大谷派教導職の管長を務めることが定まる。 昭和37年(1962年)7月、「同朋会運動」発足。当時の宗務総長は訓覇信雄。 運動のテーマは、「真宗同朋会運動とは、純粋な信仰運動である」、「家の宗教から個の自覚の宗教へ」である。 昭和44年(1969年)4月、第24代法主闡如が「私が兼務している法主・本願寺住職・管長のうち、管長職だけを長男光紹新門に譲る」と発表した「開申事件」を契機に、教義解釈や宗派運営の方針、財産問題等を巡り、大谷家と改革派が主導する真宗大谷派内局とが対立する。(詳細は「お東騒動」を参照。) 昭和56年(1981年)6月11日、新「真宗大谷派宗憲」(新宗憲)発布。宗憲改正にともない、「法主」を廃して「門首」を新たに設け、本願寺住職及び管長の役職を廃止した。 昭和62年(1987年)12月、内局(宗務総長及び参務で組織される。)は、宗教法人法に基づいて「宗教法人 本願寺」を解散の登記を行い、「宗教法人 真宗大谷派」に吸収合併する。当時の法主は、第二十四代法主 闡如。合併により真宗大谷派の本山としての礼拝施設となり、正式名称を「真宗本廟」と変更する。また、「東本願寺」の通称も公式に併用している。 ※本願寺の正式名称は「久遠実成阿弥陀本願寺」
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