東西分断時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 05:52 UTC 版)
1949年にドイツが東西に分断されると、西ドイツの連邦宰相に就任したコンラート・アデナウアーは非ナチ化政策について、全ドイツ人を対象に進められたことについて「多くの不幸と多くの災禍をもたらした」として、ドイツ人全員が責任を負うのではなく、一部の重大な戦争犯罪人と刑事犯のみが責任を負うべきであるとして、非ナチ化の終了を連邦政府の名によって宣言することを試みた。 そこで非ナチ化によって追放された対象について議論が行われ、キリスト教民主同盟・キリスト教社会同盟、社会民主党は重罪者と積極分子以外の追放者の解除を主張したのに対し、自由民主党、ドイツ党は追放者の全面解除を主張した。アデナウアーは非ナチ化の全面解除が連合国高等弁務府によって反発が起こることをおそれ、最終的には前者の案である重罪者と積極分子を除く追放者解除による非ナチ化終了宣言文を1950年12月に採択し、これによって非ナチ化は終了した。
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