東西冷戦体制の成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 07:38 UTC 版)
「近代から現代にかけての世界の一体化」の記事における「東西冷戦体制の成立」の解説
詳細は「冷戦」、「トルーマン・ドクトリン」、「ワルシャワ条約機構」、および「コミンフォルム」を参照 アメリカの主導下に戦後世界秩序の形成は進んだが、しだいにソ連がアメリカに対抗する姿勢を明らかにした。ソ連はナチス支配から解放した東ヨーロッパ諸国を勢力下においたが、その影響が西ヨーロッパに及ぶことをおそれたアメリカは、1947年にトルーマン・ドクトリンを発表して、ソ連「封じ込め」政策を打ち出し、マーシャル・プランを提唱した。それにより、西欧諸国の復興は本格化したが、援助計画の受け入れを拒否したソ連は、東欧諸国の社会主義化を強行し、47年にコミンフォルム(欧州共産党情報局)を設けて各国共産党の団結をかためた。 こうしてアメリカを盟主とする西側、ソ連を中心とする東側の二大陣営が形成された。両陣営の緊張は、分割占領下のドイツをめぐって高まり、まもなく、1948年のソ連のベルリン封鎖をきっかけとして、ドイツは東のドイツ民主共和国と西のドイツ連邦共和国に分断された。ソ連も原爆実験に成功し、西側のNATOに対抗して東欧諸国とのあいだにワルシャワ条約機構を結成した。アメリカは、アジア・太平洋方面などでも各地域ごとに地域集団防衛条約機構を組織し、「冷たい戦争」とよばれた米ソの対立は世界的なひろがりをみせた。
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