東西両軍の激突
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 04:18 UTC 版)
政光・清直らは六角政堯を討ち取ったものの、高忠の反撃で窮地に陥り、美濃小守護代の斎藤妙椿に援助を受け、文明4年(1472年)9月末に西軍の乙童子丸・政光・多賀清直・宗直父子・六角高頼・斎藤妙椿ら連合軍は孫童子丸派を破り、政経・高忠らを越前へ敗走させる。そして政光を後見役に乙童子丸が家督を継ぎ飛騨・出雲・隠岐守護職となる。同年に後見役だった政光が病死し、守護代の多賀清直・宗直父子が乙童子丸を補佐する。 出雲へ落ち延びていた政経と高忠は、文明7年(1475年)9月に出雲の国人衆を率いて上洛し、政経は幕府から近江守護に補任され、近江奪還の命令も受けた。政経・高忠は山門僧徒と信濃の小笠原家長ら東軍の支援を受けて、近江へ進攻し観音寺城下で西軍の六角高頼・京極高清(乙童子丸)・多賀清直父子の連合軍と戦い大勝する。敗れた六角勢は観音寺城へ籠城し、京極勢は江北へ撤退する。 同年10月に、美濃守護・土岐成頼と越前・尾張・遠江守護・斯波義廉の援軍が近江へ到着し、西軍の反撃が始まる。高清は西軍の六角高頼・斯波義廉・土岐成頼・斎藤妙椿ら連合軍と共に政経・高忠らを破り、高忠を京都に敗走させるも一進一退の攻防は応仁の乱後も続く。 やがて、応仁の乱は終結に向かい、応仁の乱で六角氏が西軍についたのをきっかけに京極氏が世襲することになった近江守護も、文明10年(1478年)に六角高頼が近江守護に任命されて六角氏が近江守護の地位を回復した。
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