東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争
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「ロシア正教会の歴史」の記事における「東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争」の解説
キエフ大公国は10世紀末から11世紀前半にかけてウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公の時に最盛期を迎えたが、その後は10以上の諸公国による割拠の態を示したばかりか、テュルク系遊牧民ポロヴェツ人による介入をも招き、ルーシは混沌とした有様となった。 13世紀にはルーシの動揺は決定的となる。度重なる内紛によりルーシの統合は破壊された。東からはポロヴェツ人を打ち破ったモンゴルが襲来し、西からはローマ教皇の意を受けた「北方十字軍」の侵略を受けた。バトゥに率いられた東からのモンゴル軍は、1237年にはウラジーミルを陥落させ、1240年にはポーランド・ハンガリーへの遠征の途中でキエフを陥落させた。西からのルーシに対する「北方十字軍」としては、スウェーデン軍がノヴゴロドの奪取を試み(1240年)、ドイツ騎士修道会はプスコフを占領した。 これら外憂のうち、西方からのスウェーデン軍・ドイツ騎士修道会は、いずれもウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーによって撃退された(対ドイツ騎士修道会の戦闘としては1242年の「氷上の戦い」)。だがモンゴルに対しては、アレクサンドル・ネフスキーは基本的に恭順の姿勢を示していくことになる。以降15世紀中葉に至るまで、ルーシはモンゴルの影響下に置かれることとなる。 モンゴルの支配は苛烈なものではあったが、ローマ・カトリックへの改宗を強制する「十字軍」とは違い信仰面においては比較的寛容だったため、当時のキエフ府主教であったキリル3世(ロシア語版、英語版)もアレクサンドル・ネフスキーの「西方諸国に断固とした姿勢で臨み、東のモンゴルには恭順する」という外交政策を支持していた(しかしアレクサンドルのこうした外交姿勢は「臆病」「優柔不断」との非難も同時代に受けている)。当時のルーシ諸公には極めて強力なモンゴルの軍事力に対して徹底抗戦するだけの実力も統一性もなかった。ルーシ諸公の内紛とモンゴルの介入は断続的に続き、ルーシの国土は荒廃した。 キエフをはじめとするルーシ中央部、および南部の平原はモンゴルによって壊滅した。ルーシの他の地域もモンゴルから大きな被害を受けたが、これ以後ルーシは、北西のノヴゴロドおよびプスコフ、北東のウラジーミル、スーズダリ、ロストフ、ヤロスラヴリ、南西のハールィチ、ヴォルィーニなど、(あくまで相対的・比較的にだが)被害の少なかったおおよそ三つの諸地域から構成されるようになった。 このような外憂内患を受けた結果が、キエフ府主教座の移転である。
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