東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争とは? わかりやすく解説

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東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 00:55 UTC 版)

ロシア正教会の歴史」の記事における「東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争」の解説

キエフ大公国10世紀末から11世紀前半にかけてウラジーミル聖公とヤロスラフ賢公時に最盛期迎えたが、その後10上の諸公国による割拠の態を示したばかりかテュルク系遊牧民ポロヴェツ人による介入をも招きルーシ混沌とした有様となった13世紀にはルーシ動揺決定的となる。度重なる内紛によりルーシ統合破壊された。東からはポロヴェツ人打ち破ったモンゴル襲来し西からローマ教皇意を受けた北方十字軍」の侵略受けたバトゥ率いられた東からのモンゴル軍は、1237年にはウラジーミル陥落させ、1240年にはポーランド・ハンガリーへの遠征途中でキエフ陥落させた。西からルーシ対する「北方十字軍」としては、スウェーデン軍ノヴゴロド奪取試み1240年)、ドイツ騎士修道会プスコフ占領した。 これら外憂のうち、西方からのスウェーデン軍ドイツ騎士修道会は、いずれもウラジーミル大公アレクサンドル・ネフスキーによって撃退された(対ドイツ騎士修道会戦闘としては1242年の「氷上戦い」)。だがモンゴルに対しては、アレクサンドル・ネフスキー基本的に恭順姿勢示していくことになる。以降15世紀中葉に至るまで、ルーシモンゴル影響下に置かれることとなる。 モンゴルの支配苛烈なものではあったが、ローマ・カトリックへの改宗強制する十字軍」とは違い信仰においては比較寛容だったため、当時キエフ府主教であったキリル3世ロシア語版英語版)もアレクサンドル・ネフスキーの「西方諸国断固とした姿勢臨み、東のモンゴルには恭順する」という外交政策支持していた(しかしアレクサンドルこうした外交姿勢は「臆病」「優柔不断」との非難同時代受けている)。当時ルーシ諸公には極めて強力なモンゴルの軍事に対して徹底抗戦するだけの実力統一性もなかった。ルーシ諸公内紛モンゴル介入断続的に続きルーシ国土荒廃したキエフはじめとするルーシ中央部、および南部平原モンゴルによって壊滅したルーシ他の地域モンゴルから大きな被害受けたが、これ以後ルーシは、北西ノヴゴロドおよびプスコフ北東ウラジーミルスーズダリロストフヤロスラヴリ南西ハールィチヴォルィーニなど、(あくまで相対的比較的にだが)被害少なかったおおよそ三つ諸地域から構成されるようになったこのような外憂内患受けた結果が、キエフ府主教座の移転である。

※この「東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争」の解説は、「ロシア正教会の歴史」の解説の一部です。
「東西両面からの軍事的脅威と諸公の抗争」を含む「ロシア正教会の歴史」の記事については、「ロシア正教会の歴史」の概要を参照ください。

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