東西両陣営の対立
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1945年4月30日、ドイツでは総統アドルフ・ヒトラーが自殺し、5月7日にはドイツは連合国に無条件降伏した。先立ってソ連軍が占領状態に置いていたベルリンには各国の駐留軍が進駐するが、独ソ戦の賠償や自国の支配圏の拡大を望むソ連政府は、西側の進駐を妨害するなど非協力的で、西ベルリン地域ではソ連の秘密工作や不法行為も起こっていた。東ベルリンはソ連、西ベルリンは米英仏の3か国が統治し、実質的に2分割された。西ベルリンの周囲は全てソ連統治下のため飛地状態となった。 賠償問題を巡り、7月のポツダム会談を最後に米ソ両国が相互不信となると、共同統治は米英仏の西側諸国と、それに対するソ連との間における対立を生じ、ベルリン市内の東西境界地域は緊張することになった。ドイツの新政府樹立がフランスの拒絶で頓挫すると、アメリカは世界政策として共産主義勢力の封じ込め(トルーマン・ドクトリン)を掲げ、1947年6月にはジョージ・マーシャル国務長官がヨーロッパへの経済支援(マーシャル・プラン)を発表し、イギリスとフランス(そして西ドイツ)などによる親米国家群による対ソ共同戦線を構想した。これにソ連のヨシフ・スターリンは、共産主義国家の連帯組織としてコミンフォルムを結成して対抗した。
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