西側の反応
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 08:16 UTC 版)
「1948年のチェコスロバキア政変」の記事における「西側の反応」の解説
当初は東西両陣営のいずれにも属さず、マーシャル・プランを受け入れようとしていたチェコスロバキアに共産党単独政権ができたことはイギリス、フランスを中心とした西側諸国に大きな衝撃を与えた。またチェコスロバキアが、東欧でも唯一の工業国で軍需産業が盛んだったことも大きな痛手となった。西側諸国はこれに対抗して、1948年3月17日に、イギリス、フランス、オランダ、ベルギー、ルクセンブルクの五ヵ国がブリュッセル条約を締結。これは前年に英仏間で結ばれたダンケルク条約を発展させたもので、五ヵ国による相互援助、防衛が確認された。 しかし東西両陣営の対立が決定的となった今、強大なソ連軍に対抗するためには十分とはいえず、そこで西側諸国は唯一ソ連に対抗できる軍事力を持つアメリカを巻き込んだ新たな相互防衛策を模索するようになる。アメリカからしてもソ連の軍事力は脅威を感じており、西ヨーロッパの誘いに応じた。この構想は急速に進められ、1949年4月、北大西洋条約が結ばれNATOが成立した。また1954年10月23日にはパリ協定によって、西ドイツ、イタリアを加えた拡大ブリュッセル条約が成立し、WEUが結成され西側諸国の安全保障体制が確立された。東西両陣営の対立は1989年の東欧革命まで続くことになる。
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