西側からの回答文書
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:14 UTC 版)
「スターリン・ノート」の記事における「西側からの回答文書」の解説
まだスターリンが西側統合を干渉していない状況を考えると、西側諸国にとって3月の外交文書の内容は想定内だった。しかし、西ドイツを西側に統合するための条約が締結されるまでは、いかなる状況下でもソビエト連邦との交渉に入る事を望んでいなかった。したがって、西側は当面の間、平和条約の交渉を遅らせる目的の回答を起草した。 アデナウアーが意見を求められたのは、西側戦勝国の外相が最終案を決定した後だったので、彼は微調整を加えるに止まった。スターリンの3月文書に不信感を持っていたが、回答書では西側が申し出を断ったという印象を与えない様、頭から却下しない様求めた。 1952年3月25日、モスクワでイギリス、フランス、アメリカの政府から初の回答が手渡された。そこには以下のような事が書かれていた。 平和条約交渉開始は、ドイツ全土における国連自由選挙委員会の審査、自由選挙の実施、そして全ドイツ政府の成立が前提条件である。 ポツダム会談で決められた国境(オーデル・ナイセ線)は平和条約が結ばれるまでの暫定的な物であり、恒久化を拒否する。 ドイツは国際連合憲章の枠組みの中であらゆる同盟を結ぶ権利を持つ。 ドイツを防衛的な欧州同盟に統合する事への西側諸国からの全面的な支持は、欧州防衛共同体によって明確に示された。独立したドイツ軍は、かつての欧州の軍国主義・競争・侵略という状況とは無縁の物である。
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