西側での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/03 14:44 UTC 版)
「アレクサンドル・ソルジェニーツィン」の記事における「西側での生活」の解説
1974年2月12日にソルジェニーツィンは逮捕され、レフォルトヴォ監獄に拘留される。翌13日、ソ連刑法第64条「国家反逆罪」でソ連市民権を剥奪後、8名の国家保安委員会職員の護送で行き先も告げられず飛行機に乗せられ、西ドイツのフランクフルトに国外追放され、ソ連の市民権を剥奪された。これは1929年のレフ・トロツキー以来のことであった。KGBは『収容所群島』の最初の部分の原稿を発見した。一週間足らずの間にエフゲニー・エフトゥシェンコはソルジェニーツィンを擁護したことへの報復に苦しむこととなった。アメリカの大使館付武官ウィリアム・オドムはソルジェニーツィンの著作や資料の大半をどうにかして入手したが、その中には作家同盟の会員証や、第二次世界大戦での功労章なども含まれた。ソルジェニーツィンは自身の伝記『Invisible Allies』(1995年)の中でオドムの働きに敬意を表した。 西ドイツでソルジェニーツィンは、ケルンのハインリヒ・ベル宅で生活した。その後スイスのチューリッヒに移り住み、続いてスタンフォード大学の招きに応じ、アメリカ合衆国に移住した。フーヴァー研究所内のフーヴァー・タワー11階に滞在し、その後1976年9月にバーモント州キャベンディッシュに移住する。1978年にハーバード大学の名誉文学位が与えられ、6月8日には現代の西側世界に於ける唯物論を非難する講演を行った。 続く17年間でソルジェニーツィンはロシア革命からの歴史を描いた『赤い車輪』に取り組んだ。1992年までに4章が完成し、そのほかにもいくつかの短編を発表した。 1982年9月、密かに短期来日。1ヵ月にわたり日本各地を旅行。その後、台湾(中華民国)を訪問し帰米。翌1983年5月、過酷な運命を耐え抜いた正教徒としての神への信仰で宗教界のノーベル賞とも言える1983年度テンプルトン賞を受賞する。ロンドンでの授賞式では「現代の悲劇の原因はすべて我々が神を忘れたことにある」とキリスト者の立場で現代文明を鋭く批判した。 1985年3月11日、ソ連ではゴルバチョフ政権が誕生した。ゴルバチョフはブレジネフ政権以来の内外政策の行き詰まりと社会的停滞からの脱却を目指す路線を打ち出す。レーニン主義のリバイバル路線と言われる。1988年夏頃にはソ連の一部報道機関が近い将来彼の作品を発表、と伝える。1989年、イーブイ・ミール誌第1号に『収容所群島』の一部が掲載予定となったが、上層部の命令で突如中止になる。同年7月、当局は『収容所群島』の全面解禁に踏み切る決定を下す。抜粋がミール誌に連載予定となる。 1990年8月、大統領令によってソルジェニーツィンのソ連における市民権は回復した。『甦れ、わがロシアよ〜私なりの改革への提言』は9月18日付「コムソモリスカヤ・プラウダ」(共産青年同盟機関紙)2200万部と19日付「文学新聞」450万部の付録として発表され、合計2650万部という膨大な冊数となってソ連国民の白熱の議論を呼んだ。モスクワのインターファックス通信の報道では、国立世論センターがソ連各地で行った調査の結果、本文をソ連国民の38%が読んでおり、その60%が共感を示し14%が批判的だったという。 9月25日にはソ連最高会議でゴルバチョフ大統領が『甦れ、わがロシアよ~私なりの改革への提言』を2回読んだと告白し、内容を絶賛した。 そして1991年12月、ついにソビエト連邦は崩壊した。
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