ナチスの犯罪をいかに裁くか
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 13:59 UTC 版)
「ドイツの歴史認識」の記事における「ナチスの犯罪をいかに裁くか」の解説
BRDでは、当然自国の歴史としてナチスの民族抹殺計画を重大な犯罪として認知し、教育の中でも取り上げている。以下では主に東西分断時代のBDRにおけるナチスのホロコースト犯罪やドイツ国民としての戦争犯罪と裁判への取り組みを紹介する。 BRDでは敗戦後早くから、ナチスを戦勝国が裁くよりも、ドイツ人自らがナチスの行為を犯罪としてドイツの裁判所で裁くことこそがドイツ民主主義の再生にとってはるかに重要であり、大きな意味を持つと考えられてきた。 国際軍事裁判所条例の第6条c項は、ニュルンベルク裁判においてナチスの犯罪を処罰することを前提に当初起草されたという経緯から、戦時以外のナチスによるドイツ人に対する迫害や残虐行為を裁くための効力を持っているわけではなかった。 1945年にナチス政権下の民族裁判所などの特別裁判所が廃され、区裁判所、ラント裁判所、上級ラント裁判所といった通常裁判所が再建、ドイツの司法機関が再開された後、1946年にニュルンベルク裁判とは別にドイツ人自身の手による反ナチス裁判をという要望書が提出された。 ナチス政権下の1933年から1945年の間、ドイツの刑務所に収監されていた政治犯は300万人にのぼり、要望書には諸外国や非ドイツ人に対しての行為は無論、それら戦争以前からナチスによって政治的敵対者が虐殺され、強制収容所に送られたといった、ナチスに敵対すると思われた民間人に対する迫害、抑圧、虐殺の政策が行われたことを「ドイツ民族全体に対して、また無数のドイツ国民一人一人に対してなされた恐るべき犯罪」として、ドイツ人の裁判所で裁くべきものとする要望が記されていた。 だが実際には、1945年のナチス党の解散時にナチス党員は約850万人、協力者は300万人以上にも上っており(合計で当時のドイツ総人口の約2割)、また官僚や政治家、企業経営者など社会の中核をなす層にも浸透していたことから、ナチスの追及は敗戦で荒廃したドイツの戦後復旧を優先した結果としておざなりなものとならざるを得なかった。加えて直接の関係者はもとより親族などの反対もあり、ナチス追及は不人気な政策であった。 1950年代末には、BRDに対して「血に飢えたナチ裁判官」キャンペーンがDDRで行われている。そこでは元ナチス関係者(党員か協力者)の裁判官や検察官など在朝法曹が1,118人もBRDにはいると非難されており、これらの元ナチス司法官僚はナチスの追及に大きな障害となった。最終的に有罪になったナチス関係者は、罰金刑のような軽い罪を含めても6000人あまり、関係者全体の0.06%に過ぎない。 なお、現在に至るまで、ナチスの犯罪はもっぱら従来の刑法典(謀殺罪、故殺罪、謀殺幇助罪など)のみに依拠して裁かれてきた。日本では、しばしば「人道に対する罪」がBRD刑法に導入されたという指摘がなされるが、ドイツ現代史学者の石田勇治が『過去の克服 ヒトラー後のドイツ』(白水社、2002年)で明快に述べているように、そのような事実はない。また日本では「ナチス戦犯」と呼ばれることもあるが、BRD国内法上の一般刑法犯として裁かれているであって、戦犯として扱われているわけではない。 さらに、BRD政界では戦犯裁判が「戦勝国による不当な裁き」との認識で語られていた。例えば1950年11月8日BRD連邦議会議員ハンス・ヨアヒム・フォン・メルカッツ(ドイツ党)は次のように述べている。 「ドイツ兵に加えられた名誉毀損は償うことができません。ドイツ兵の名誉は侵害できない確かなものです」、「名誉ある人びとを品位のない環境で拘禁しておく企てには反対しなければなりません。ドイツ人の魂にのしかかる負担を取り除くために、力強い行動が必要です。マンシュタイン将軍やケッセルリンク将軍のような男たち、つまり目下ランツベルクとヴェルルに収監されている男たちとわれわれは一体です。われわれは、われわれの身代わりにかれらにおしつけられたものをともに背負わねばなりません」 また、1952年9月17日BRD連邦議会においてニュルンベルク裁判について フォン・メルカッツ(キリスト教民主同盟)「法的根拠、裁判方法、判決理由そして執行の点でも不当なのです」、メルテン(ドイツ社会民主党)「この裁判は正義に貢献したのではなく、まさにこのためにつくり出された法律をともなう政治的裁判であったことは、法律の門外漢にも明らかです」、エーヴァース(ドイツ党)「戦争犯罪人という言葉は原則として避けていただきたい。……無罪にもかかわらず有罪とされた人びとだからです」といった発言がある。このため、ナチスの犯罪と戦争犯罪を混同することがナチス犯罪者追及の障害になっていた。 これに対し、ドイツ社会民主党のアドルフ・アーントは基本法改正による謀殺罪の時効撤廃を要求するなど、ナチス時代の犯罪に対する論争では時効撤廃による訴追継続の中心となった人物の一人で、「ナチの犯罪」の追及を行うと同時に主要戦犯として終身刑に処せられていたルドルフ・ヘスの釈放嘆願も行っていた。アーントが1965年に「戦争犯罪は戦争法の逸脱から生じる犯罪」だが「ナチの犯罪は戦争犯罪とは無関係で、全国家機能を動員して計画し、熟考のうえ、冷酷卑劣に実行された殺人行為である」として謀殺罪の時効停止を求めたことが象徴するように、「ナチ犯罪者は戦争犯罪人とは別の存在である」という認識がドイツのナチ犯罪追及の根拠である。したがってBRDで追及されているのは「戦争犯罪」とは別の「ナチ犯罪」であり、日本でよく見られる「ドイツの戦争犯罪追及」との表現は正確ではない。
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