ナチスの台頭と亡命文学(1933年 - 1945年)
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「ドイツ文学」の記事における「ナチスの台頭と亡命文学(1933年 - 1945年)」の解説
1933年1月30日にナチスがドイツの政権を握ると、同年中から焚書が行なわれ、国家から独立して文学活動を行なうことは不可能になった。1938年の終わりにはオーストリアでも同様の事態が起こった。政府からは郷土愛と民族主義を重んじる文学が推奨され、その他にはいくらかの娯楽文学が許されただけであった。体制への著名な反対者は亡命し、さもなければヤコブ・ヴァン・ホディスやカール・フォン・オシーツキィのように死がもたらされた。ナチズムに反対しながらも国内に残ったいくらかの作家は作品の発表を諦めるか、もっぱら非政治的なテーマで書くことを強いられた。彼らは国内亡命者とも呼ばれるが、もともと非政治的な作家であったものと彼らとを見分けるのはしばしば困難である。当時国内に残っていた作家はゴットフリート・ベン、エルンスト・ユンガー、エーリッヒ・ケストナー、ゲアハルト・ハウプトマン、オトフリート・プロイスラー、ウォルフガング・ケッペンなどである。 およそ1500人もの作家が、多くの場合入り組んだ過程を経て亡命し、シュテファン・ツヴァイクなど多数の作家が亡命先で命を落とした。ドイツの亡命文学の拠点は世界各地に散らばっており、なかでもスイスは特に劇作家にとって重要な国であった。亡命した作家は多数に及ぶため、亡命文学について統一的なテーマや共通するスタイルを見出すことは困難である。亡命後も多産であり続けた作家はハインリヒ・マンとトーマス・マン、ヘルマン・ヘッセ、ベルトルト・ブレヒト、アンナ・ゼーガース、フランツ・ヴェルフェル、ヘルマン・ブロッホなどであり、一方アルフレート・デーブリーンやハインリヒ・エドゥアルト・ヤーコブ、ヨーゼフ・ロートらは執筆の継続が困難になった。終戦後は彼らの一部は亡命先に留まり、一部は祖国に戻った。エリアス・カネッティはナチスによるオーストリア併合の際にロンドンに亡命したため、ノーベル文学賞をイギリス市民として受賞している。総じて戦間期には亡命者も含め多数の作家が作品制作の断念を余儀なくされた。
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