ナチスの権力掌握と後半生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/05 05:07 UTC 版)
「カール・ヴァイグル」の記事における「ナチスの権力掌握と後半生」の解説
アドルフ・ヒトラーが1933年にドイツで政権を掌握してからは、ユダヤ系であったヴァイグルは、非アーリア系音楽の禁止によって初めて音楽活動の重大な制限を知って脅威が募るうち、1938年にヒトラーがオーストリアに進軍すると、文字通りの危険が身柄と命にも及んだ。ヴァイグルの名は楽譜出版社の名簿からすでに外されていた。同年、母エラが他界して間もない10月に、アメリカ人の友人の支援で家族連れでアメリカ合衆国に亡命し、10月9日にクルト・アドラーやエマヌエル・フォイアーマンとともにニューヨークに上陸した。娘マリアと娘婿のゲルハルト・ピスク=ピアースは、1年遅れでスイス経由でアメリカに入国した。57歳のヴァイグルは、自分の置かれた状況を目の前にして、異国で第二の人生を始めなければならなかった。上流市民の生計を支えるために苦労して得た生活基盤が、一挙に、一部屋の住居での「サバイバル」に消え去ったのだった。 「旧世界」で持て囃され、重用された作曲家にとっては、職探しはおよそ見込みが持てず、ヴァイグルはどうにか個人教授で食い繋いでいた。アメリカ合衆国においても圧倒的な経済上の非常事態のせいで、ヴァイグルが携えてきたシェーンベルクやリヒャルト・シュトラウス、ブルーノ・ワルターらによるさまざまな推薦状さえほとんど効き目がなかった。第二の故郷で教職の可能性が提示されると、ハート音楽学校やブルックリン大学、フィラデルフィア音楽院で教鞭を執り、1945年から1948年までボストン音楽院の楽理科主任教授を務めた。1944年には帰化して合衆国市民権を取得したが、それでも心は故郷を懐かしむ気持ちに激しく掻き立てられていた。 控え目に言っても熱狂的な自然愛好家で登山家でもあったヴァイグルは、アメリカ西部にいる息子夫婦を訪ねた際に、初めて見知ったカリフォルニアの山々に慰めを見出した。隠遁してほとんど人知れず暮らしていたヴァイグルであったが、最晩年に音楽を究め、2つの巨大な交響曲と3つの弦楽四重奏曲のほかに、沢山の小品を作曲した後、病に倒れ、長患いの末に1949年8月に骨髄腫によって帰らぬ人となった。
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