ナチスへの協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 05:36 UTC 版)
「リヒャルト・シュトラウス」の記事における「ナチスへの協力」の解説
1930年代以降のナチス政権下のドイツにおいて、シュトラウスと政治との関わりをめぐっては今日に至るも多くの議論がある。一方は、シュトラウスが第三帝国の帝国音楽院総裁の地位についていたこと、ナチ当局の要請に応じて音楽活動を行った事実を指摘し、この時代のシュトラウスを親ナチスの作曲家として非難する見解である。もう一方は、シュトラウスの息子フランツ・シュトラウス(1897年 – 1980年)の妻がユダヤ人であり、その結果シュトラウスの孫もユダヤ人の血統ということになるために、自分の家族を守るためにナチスと良好な関係を維持せねばならなかった事情を考慮して擁護する見解である。事実、シュトラウスはオペラ『無口な女』の初演のポスターから、ユダヤ人台本作家シュテファン・ツヴァイクの名前を外すことを拒否するという危険を犯し、自身の公的な地位を使って、ユダヤ人の友人や同僚たちを救おうとしたとする見解もある。さらにはシュトラウスもナチスに利用された被害者だったとする意見もある。 シュトラウスは第二次世界大戦終結後、ナチスに協力したかどで連合国の非ナチ化裁判にかけられたが、最終的に無罪となった。なお、1940年(昭和15年、皇紀2600年)にはナチスの求めに応じて、日独伊防共協定を結んだ日本のために「日本の皇紀二千六百年に寄せる祝典曲」を書いている(当該項目を参照)。
※この「ナチスへの協力」の解説は、「リヒャルト・シュトラウス」の解説の一部です。
「ナチスへの協力」を含む「リヒャルト・シュトラウス」の記事については、「リヒャルト・シュトラウス」の概要を参照ください。
ナチスへの協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 09:27 UTC 版)
「オスカー・フォン・ヒンデンブルク」の記事における「ナチスへの協力」の解説
1933年1月には、議会第一党となったナチスの党首アドルフ・ヒトラーとフランツ・フォン・パーペン前首相の、リッベントロップ邸における秘密会談に同席して、ナチスの政権参加を協議。ヒトラーを「ボヘミアの伍長」と呼んでその首相指名を忌避してきた父を説得して、ヒトラーを首相に任命するよう説いた。この時ヒンデンブルクに対しては、東プロイセンのノイデック(ドイツ語版)に所有する荘園にかかる相続税の納税義務を回避するためにオスカーではなく別人の後援者の名前を使って登記した疑惑(ドイツ語版)が持ち上がっており、その政治的立場が弱まっていたこともヒトラーの首相指名に踏み切った理由であると指摘されている。ヒンデンブルク大統領は1月28日にヒトラーに組閣を命じ、ナチス政権が樹立された。 翌1934年8月2日、父が死去。ヒトラー首相が後任の大統領を兼任することを問う国民投票が行われることになったが、その直前の8月18日にヒンデンブルクはラジオ演説を行い、「父の遺言」なるものを紹介した。曰く、 ・・・亡き父はドイツ国の後任元首としてアドルフ・ヒトラーを想定しており、私は我が父の遺志に従い、全てのドイツ国民男女に対し、我が父の職務を首相を兼ねる総統に譲ることに賛成するよう呼びかける。タンネンベルクの勝利者がその際発した言葉は、こんにちも有効である。団結し、ドイツの指導者に続くべし。内外にドイツ国民の不滅の団結の意志を示せ・・・ しかしそもそも憲法は大統領が後任を指名することを許しておらず、それどころか「父の遺言」にそのような文言は存在しなかった。自身にまつわる脱税疑惑という弱みがあり、また「長いナイフの夜」を目の当たりにしたヒンデンブルクがナチスの意に従ったと思われる。翌日行われた国民投票では9割が賛成票を投じた。ヒトラーは大統領の職名は継承しなかったが権限は継承し、「指導者兼首相」(総統)としてドイツにおける政治権力を完全に掌握した。
※この「ナチスへの協力」の解説は、「オスカー・フォン・ヒンデンブルク」の解説の一部です。
「ナチスへの協力」を含む「オスカー・フォン・ヒンデンブルク」の記事については、「オスカー・フォン・ヒンデンブルク」の概要を参照ください。
ナチスへの協力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 23:53 UTC 版)
「メルセデス・ベンツ」の記事における「ナチスへの協力」の解説
国家社会主義ドイツ労働者党の党首にしてドイツの指導者であったアドルフ・ヒトラーは、政権獲得後の1933年2月11日、国際ベルリンモーターショーにおける開会宣言で新時代の交通機関である自動車と自動車道路の建設に注目し、モータリゼーションを加速することが国家の防衛力を高めることになると説いた。これ以降政府は自動車税の撤廃、アウトバーン建設、国有鉄道にトラック輸送部門の新設等の政策を打ち出した。そのヒトラーの愛車はメルセデスベンツの770Kだった。 ナチスは党内に国家社会主義自動車軍団(NSKK)を設け、運転技能者育成を始める。ベンツは運転教官の派遣、教習車の無償提供、国家社会主義ドイツ労働者党機関への役員の派遣等で積極的に対応し、国家社会主義ドイツ労働者党の強力なバックアップにより、グランプリ・レース、ル・マン24時間やミッレミリアなどのレースで同じくバックアップを受けるアウトウニオンなどとともに活躍した。 1935年のドイツ再軍備宣言以降のドイツの軍備拡張を支える企業として、戦闘機のエンジンや軍用車両などの生産を行なった。1939年9月に勃発した第二次世界大戦中は軍需生産に集中して、連合軍の爆撃の標的になるなどして、ドイツの敗戦までの約6年間に壊滅的な損害を受ける。大戦中にユダヤ人や連合軍の捕虜を大量に強制労働者として使用したことから、戦後多額の賠償金を支払うことになった。
※この「ナチスへの協力」の解説は、「メルセデス・ベンツ」の解説の一部です。
「ナチスへの協力」を含む「メルセデス・ベンツ」の記事については、「メルセデス・ベンツ」の概要を参照ください。
- ナチスへの協力のページへのリンク