アウトウニオン
1930年代にグランプリ・レースやヒルクライムで活躍したドイツのメーカー。32年にアウディ、DKW、ホルヒ、バンダラーの4社が合体して誕生。その後、国威発揚を狙うナチス・ドイツから莫大な資金援助を受けて第2次世界大戦が始まるまで、メルセデス・ベンツとともにグランプリ・レースを席巻した。初期はフェルディナント・ポルシェが設計したA~Cタイプ(V型16気筒)、後期はDタイプ(V型12気筒)が出場。巨大なエンジンをドライバーの背後に搭載、つまりミッドシップを採用していたのが最大の特徴だったが、ドライビングは非常に困難だった。36年には、Cタイプを駆るベルント・ローゼマイヤーがヨーロッパ・チャンピオンに輝いた。戦後は各工場がソ連支配下にあり解体状態となったが、旧西ドイツ側てまずDKWブランドが復活。その後、ダイムラーやフォルクスワーゲンの資本参加でアウトウニオンとして復興。69年にNSUと合併、85年に社名をアウディへと変更して、アウトウニオンの名前は消えた。
アウトウニオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/21 16:42 UTC 版)
アウトウニオン(Auto Union)は1930年代から1980年代に存在したドイツの民族系資本の自動車メーカー。今日のアウディの前身となった。
- 1 アウトウニオンとは
- 2 アウトウニオンの概要
アウトウニオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 10:14 UTC 版)
「ヴィルヘルム・セバスチャン」の記事における「アウトウニオン」の解説
1932年にアウトウニオンが設立されると、セバスチャンは同社が設立したレーシングチームでドライバー兼メカニックとして働き始めた。 1934年のグランプリ・シーズンからアウトウニオンがグランプリへの参戦を始めるに際して、同チームのリザーブドライバーに任命され、コッパ・アチェルボ(英語版)(ペスカーラ)、イタリアグランプリ(モンツァ)、チェコスロバキアグランプリ(マサリクリンク(ドイツ語版))といった数レースに参戦した。コッパ・アチェルボでは5位、イタリアグランプリとチェコスロバキアグランプリでは7位になるという結果を残したが、当時のヨーロッパ選手権(1935年から開催されることになる)を戦えるほどの速さは持っていなかったことから、ドライバーとしてのキャリアはこの年で終了となる。 ヴィルヘルム・セバスチャンの弟であるルートヴィヒはアウトウニオンでチーフメカニックをしていたことから、彼もまたメカニックとしてアウトウニオンに残り、1935年シーズンは新人のベルント・ローゼマイヤーの担当となり、その後も彼の担当を任された。 1938年1月28日、アウトバーンのフランクフルト - ダルムシュタット間(現在のA5線)で速度記録への挑戦が行われた際、吹き渡る風が強いことに気付いたセバスチャンはその日の出走を中止するよう再三に渡ってローゼマイヤーに進言したが、それが聞き入れられることはなく、ローゼマイヤーは速度記録挑戦中に高速走行する車両が横風にあおられて走路外に飛び出し、事故死した。
※この「アウトウニオン」の解説は、「ヴィルヘルム・セバスチャン」の解説の一部です。
「アウトウニオン」を含む「ヴィルヘルム・セバスチャン」の記事については、「ヴィルヘルム・セバスチャン」の概要を参照ください。
アウトウニオン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 10:10 UTC 版)
「ヴィリー・ウォルブ」の記事における「アウトウニオン」の解説
1932年にドイツの4つの自動車メーカーが合併する形で設立されたアウトウニオンは、グランプリレースへの参戦を目論み、ウォルブは同社のレーシングチームの監督として採用された。 1934年からはグランプリレース用の車両に新規定が導入されることになっていたことから、アウトウニオンはその年からの参戦に狙いを定め、フェルディナンド・ポルシェの設計になるレーシングカーを用意した。ドライバーとしては、ハンス・シュトック(英語版)とヘルマン・ライニンゲン(英語版)をレギュラードライバーとし、オーギュスト・モンバーガー(英語版)、ヴィルヘルム・セバスチャンをリザーブドライバーに据えるという布陣を整えた。 アウトウニオンは1934年5月末のアヴスレンネンからレース参戦を始め、7月に同チームとしては初のメジャーレースとなるドイツグランプリに臨み、シュトゥックが優勝を飾る。 この年は他にも何勝か収めたものの、いずれもシュトゥックによるものであり、アルファロメオで実績のあるアキーレ・ヴァルツィを翌年に向けて獲得する。同時に、数戦に出場したリザーブドライバーに補強が必要であることも明らかであったことから、同年10月にウォルブはニュルブルクリンクでドライバーのオーディションを開催した。ここでパウル・ピーチュ(英語版)とベルント・ローゼマイヤーを採用し、翌年からリザーブドライバーとし、いくつかのレースに出場させるようになる。 1935年は目論見通りシュトックだけではなくヴァルツィもレースで優勝を収めるようになり、新人のローゼマイヤーも早くも優勝を重ねるようになった。しかし、全体的にはライバルであるメルセデス・ベンツに及ばず、2番手に甘んじることとなった。 こうした状況に業を煮やしたアウトウニオンはシーズン途中の9月1日にカール・オットー・フォイアライセン(Karl Otto Feuereissen)を新たな監督に任命し、ウォルブはレース部門から外され、市販車部門に移されることとなった。 1936年からはウォルブはアウトウニオンの政府部門に異動し、ベルリンで政府やナチ党の自動車の手配をしたり、国防軍の自動車関連の対応にあたることになる。ウォルブは第二次世界大戦後にアウトウニオンが解散となるまで同社で働いた。
※この「アウトウニオン」の解説は、「ヴィリー・ウォルブ」の解説の一部です。
「アウトウニオン」を含む「ヴィリー・ウォルブ」の記事については、「ヴィリー・ウォルブ」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- アウトウニオンのページへのリンク