アウトウニオンのホルヒ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/19 15:16 UTC 版)
「アウトウニオン」も参照 1932年にアウディ・ホルヒ・DKW・ヴァンダラーの民族系4社協同でアウトウニオンが結成される。ホルヒはアウトウニオングループの最高級車レンジをカバーするモデルとなり、高品質・高性能で名を馳せた。 翌1933年、ドイツ初のV型8気筒エンジン搭載量産車「830」を発表。12気筒モデルは定着せず、以後のホルヒのフラッグシップモデルは直列8気筒SOHC車となる。1935年登場の「850」を元に、1937年には「853」「951」を送り出した。1939年時点のラインナップはV8エンジンが930Vと830BL、直列8気筒エンジンが951A、853A、855となっている。この時代のホルヒとして代表的なものは「853」「951」の両シリーズである。 1939年には、当時のトレンドであった流線型を取り入れた「930S」が完成する。風洞実験によってCd値は0.43を達成したが、本格量産には至らなかった。 ホルヒ社では標準的なリムジーネ・ボディを除いて、全て外部のコーチビルダーにコーチワークを依頼していた。代表的なコーチビルダーはドレスデンのグレザー社である。このグレザー社はアウディ・920など、ホルヒ以外のボディ架装も行っていた。 メルセデス・ベンツと並んで、この時代のホルヒはドイツ国内資本の高級車の代表であり、ナチスの公用車としてもしばしば用いられた。もっともホルヒはそのステータスではメルセデスにやや譲るところがあり、ヒトラーほかナチスの上級高官はパレードでもその殆どがグローサー・メルセデスを用いていたが、ヘルマン・ゲーリングは唯一人の例外で、パレードでは彼一人が白いホルヒを使っている例もある。一説によれば、ゲーリングは大のメルセデス嫌いであったという。 これらのナチスに関する記憶はのちのちまで忌まわしいイメージとされ、名門とされた「ホルヒ」ブランドの戦後の復活を妨げているという説もある。 第二次世界大戦が始まると軍用車の製造に専念するようになり、統制型乗用車の車種であるホルヒ 108やホルヒ 901などを始めとする、オフロード仕様の大型乗用車や装甲車の生産が行われた。
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