アウトウニオン成立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 18:43 UTC 版)
「アウトウニオン」の記事における「アウトウニオン成立」の解説
ヴァイマル共和政下のドイツは、混乱期を経て1920年代後半にようやく一時の安定期を迎えたが、1929年以後の世界恐慌の影響で経済破綻寸前に追い込まれた。 当時のドイツ自動車業界では、最大手メーカーであったオペルが1929年にゼネラルモーターズに買収され、またフォード・モーターがケルンに「ドイツ・フォード」の大工場を開設するなど、アメリカ系自動車メーカーの進出が著しかった。その攻勢に民族資本のメーカーは消滅の瀬戸際に立たされて弱小企業の淘汰が進行、またダイムラーとベンツの合併によるダイムラー・ベンツの設立など、企業合同によって生き残りを図る動きも生じた。 DKWは、デンマーク人であるイェルゲン・スカフテ・ラスムッセン(Jorgen Skafte Rasmussen 、1878-1964年)により、ザクセン州(旧ザクセン王国)ケムニッツで1906年に創業した企業で、第一次世界大戦後に小型エンジン製造からオートバイ生産に乗り出して大成功を収めた。DKWは1928年に小型四輪車に進出した、自動車メーカーとしては新参の存在であったが、進出直後には経営難に陥っていたアウディ(ケムニッツ南東のツヴィッカウに本社を置いていた)を傘下に収めて開発力を強化、1930年代初頭時点ではオートバイ事業・小型車事業とも好調であった。 DKWはアウディを手がかりに、自ブランドをもより上級の四輪車メーカーにステップアップしようと目論んでいたが、日毎に力を増すアメリカ系資本の進出に対抗するためには、更に効果のある生き残り策を講じなければならなくなった。 ラスムッセンは衆目の予想を上回る大胆な経営判断を下した。1932年の中頃にアウディと創業者・本拠を同じくするホルヒを、更に年末にはDKWと同じくケムニッツを拠点とするヴァンダラーを糾合し、文字通り「自動車連合」という意味の民族系メーカー「アウトウニオンAG」を設立することに成功したのである。当時の世評ではDKWとヴァンダラーの合併話が噂として流れていた。これは互いのラインナップを補完できると思われたためである。しかし、そこに高級車のホルヒが加わるとは到底考えられていなかったのだ。 アウトウニオン本社は旧DKW本社を引き継いでケムニッツに置かれた。また、4社協力体制を表すフォー・シルバー・リングスのエンブレムが定められ(左から順にアウディ、DKW、ホルヒ、ヴァンダラーを指すものとされる)、その輪の中には合併前の各社名が記されることになる。全車共通のフォー・シルバー・リングス・エンブレムに加え、個々のモデルを製造したブランドのバッジが並んで付けられた。従業員数は当初4,500名であった。 アウトウニオンは、オペルに次いで当時ドイツ第2位の自動車メーカーとなった。そのラインナップは、合併各社の持ち味を生かした非常に幅広いものであった。軽量軽快で経済的な小型車のDKW、堅実で耐久性に優れた中型車のヴァンダラー、前輪駆動など先進的な技術を備えるアッパーミドル~上級車のアウディ、高品質なプレステージカーのホルヒという具合に価格帯を分け合ってフルラインナップを構成し、4ブランドが争うことはなかった。これは文字通りのフル・ラインナップと言えるものであった。 この手広さに当時ドイツ国内である程度比肩しうる既存メーカーはオペルぐらいしかなかった。大手でもダイムラー・ベンツは大衆車以下の価格帯が欠落しており、ドイツ・フォードは中級車と小型車のみで高級車の持ち合わせがなかったのである。 なお、イェルゲン・ラスムッセンはアウトウニオン成立後、ほどなく社主の地位から引退している。
※この「アウトウニオン成立」の解説は、「アウトウニオン」の解説の一部です。
「アウトウニオン成立」を含む「アウトウニオン」の記事については、「アウトウニオン」の概要を参照ください。
- アウトウニオン成立のページへのリンク