反ナチス
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1933年1月に初めてベルリン・フィルハーモニー管弦楽団を指揮する。1935年にナチス政権によって政治的に信頼すべからざる人物として活動禁止の憂き目を見るが、自宅マンションで指導を続け、ボリス・ブラッハーやアイネムらと親交を重ねた。ただし、完全に演奏が禁止されるのは1943年であり、それまではベルリンフィルなどで客演指揮を行っていたという記述もある。對馬達夫によると、1935年から完全に禁止される1943年までは、基本的には演奏活動は禁止されていたが、外国から要請されたときは許可されたという。1937年に行われた「イギリスの夕べ」などと題するイギリスやフランスの音楽をレオがベルリン・フィルを指揮するコンサートと、逆に外国人の指揮者とドイツ人の演奏家の組みあわせのコンサートと並行してやるナチスのドイツ優位を主張するプロパガンダ的な意図があるコンサートシリーズに参加したこともあった。 ユダヤ人への抑圧が高まり、戦争への緊張も高まるなか、ジャーナリストである伴侶ルート・アンドレーアス=フリードリヒらとレジスタンス運動、ユダヤ人救援運動などを行う。大戦前は抑圧が高まるドイツから避難、出国するユダヤ系ドイツ人ために持ち出し制限(少額しか持ち出せないので出国先での生活を心配して出国を躊躇するユダヤ系ドイツ人が多かった)がされていた資産をいったん預かり、演奏旅行などで出国した先で渡すなど、資産移送に協力する。 第二次世界大戦中はレオやルート、ルートの娘カーリン、アイネムや医師、外交官、軍人、印刷工、牧師など多様な人々が参加、協力した「エーミールおじさん」と呼ばれたグループが形成され、レオはアンドリーク・クラスノフの偽名で活動し、印刷技師ルートヴィヒ・リヒトヴィッツらと接触して反ナチスのビラ作りを地下出版や、強制収容を逃れてベルリンに潜伏するユダヤ人や東方戦線からの逃亡兵の救援活動を行った。救援したユダヤ系ドイツ人には音楽家のコンラート・ラッテなど、活動はベルリン全地区に広がり協力者も多かった。クライザウグループのヘルムート・イェームス・フォン・モルトケと密接な連絡・交流があり、白バラグループの逮捕の約1カ月後、ビラを入手してスイスやスウェーデン経由でイギリスに送る手段があるという記述からモルトケが行った白バラグループのビラの海外輸送に関与していることが示唆されている。 1944年1月にモルトケが逮捕されたあとも、クライザウグループとの連絡は保たれ、7月20日事件に関連して、6月26日にクライザウとの連絡役のハンス・ペーターズ(de:Hans_Peters_(Rechtswissenschaftler))との話し合いではナチス体制が倒れる日は近いとの仄めかしがあり、続いて7月10日に外務省の公使館参事官でクライザウ及びクーデターグループの中核メンバーのアダム・フォン・トロット(de:Adam_von_Trott_zu_Solz)から、近々ヒトラー政権転覆があるので、客演の形を取ってスウェーデンに行き新政権の連絡役となることをレオが要請される。暗殺とクーデターの失敗後、関与した人々が逮捕、処刑されるなかトロットはレオの名を明かさず処刑され、レオはこの事件による逮捕は免れている。また、すこし遅れて12月から7月20日事件に関与したとして民族裁判が始まったモルトケの救援に、レオおよびエーミールおじさんグループはクライザウグループとの繋がりを明らかにされるリスクを冒して奔走する。
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