扶桑の大地
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/14 08:38 UTC 版)
扶桑は日本をモデルにした世界なため、基本的な地形は日本列島と同じである。扶桑を象徴する不死山は富士山と同一の場所にあり、東の都である大東京(だいとうけい)は東京、西の都である飛鳥京(あすかけい)は京都に位置する。ただし、気候や動植物の生態、人々の文化などは日本とは大きく異なる。 扶桑に住む人々は「扶桑人」と呼ばれている。扶桑人の起源は「倭人(わじん)」と呼ばれる扶桑古来からの勢力と、大陸にある大国「中華」からの渡来人の勢力が、長い歴史の中で混ざり合ったことから生まれたとされる。扶桑人のマジョリティを占めるのは中国文化であるが、日本独自の文化を受け継ぐ人々もいる。また、中華の騎馬民族たちも「大殺戒」の混乱期に扶桑に多数移住してきており、扶桑には遊牧民的な文化勢力も存在している。現在は大殺戒の影響で海流が激変したために渡海が不可能となり、扶桑は大海の孤島と化している。 扶桑南方 日本列島で言うところの四国・九州域。本州地域に住む人々にとっては外国に等しい地域であまり知られていない。東南アジアから中央アジア(西域)がイメージされている世界で、密林や砂漠が広がる。密林にはオンランウータンや虎などが住み、砂漠にはシルクロード風の文化がある。また、扶桑少林寺なる仏教寺院があるが、瑞覇が教えを請いに訪れたのを門前払いにした為に彼の怒りを買い、百余名もの僧侶が殺されてしまった事で門戸を固く閉ざして所在も隠蔽した為、現在では扶桑少林寺の所在が分かる者はほとんどいない。 この扶桑南方の密林の中に、凶門派の総本山「五毒洞」がある。 扶桑西方 日本列島で言うところの中国地方と近畿地方。山地に囲まれた盆地であり、気候は温暖で四季の変化に富む。いわゆる「現実の日本」をイメージした地方。扶桑西朝の支配下にある。都は飛鳥京。剣聖派発祥の地にして、天蒼派の総本山でもある。大殺戒の影響が殆ど無かったために貴族勢力が幅を利かせており、要職のほぼ全てを牛耳っている。 扶桑中原 日本列島で言うところの中部地方。気候は温暖だが荒れ果てた大地は乾燥しており、強い風が吹きすさんでいる。朝廷が東西に分裂し、東朝と西朝が互いの正当性を巡って戦場としており、長きに渡る戦乱に晒されてきた(大地が荒れているのはこれが大きな原因)。その結果、無法地帯となっており、法より義を重んじる武侠たちが多くさすらう地方でもある。一時期は江湖から身を引いた瑞雲による平和な統治がされたこともあるが、東西朝廷は懲りずに戦乱を繰り返した。これによって孤児を始めとした多くの民衆の命を無残に奪われ、朝廷の横暴に瑞雲は遂に怒り、「天文会」を創設、自らを瑞雲覇王・瑞覇と改め、朝廷に宣戦布告した。天文会の武侠達によって多数の武将・兵士が討ち取られ、これに怒った東西朝廷が報復する、と繰り返され、その戦乱は泥沼化の一途を辿った。 この中原にある不死山(現実では富士山)にある「覇洞(はどう)」が天文会の本拠地だが、瑞覇が覇洞にこもって以来、天文会が指導者を失い混乱の極みとなった現在では、中原は再び無法地帯に戻っている。 扶桑東方 日本列島で言うところの関東地方。気候は温暖だが、夏は高温多湿、冬は低温乾燥となる温帯夏雨気候。漢民族の文化領域である華南、華中あたりがイメージされている。 扶桑東朝の支配下にある。平野地域が中心なため大都市も数多く、扶桑でも最大の人口密集地。扶桑の政治・経済・文化の中心地ではあるが、戦乱の世であるこの時代では朝廷の威光はこの東方地域のみのとどまっているのが現状である。都は大東京。成望元の子孫たちである成一族が東朝の要職を牛耳り、特にその中の一人である東朝丞相・成望寧は(自身が煮え湯を飲まされ続けた事もあって)武侠を殊の他憎悪しており、扶桑王朝を含め、その根絶に暗躍している。 扶桑北方 日本列島で言うところの東北・北海道地方。気候は亜寒帯性で、冬は長く雪が良く積もる厳寒地帯となる。中国北方の遊牧民文化をイメージした地域で、実際に過去に中華から騎馬民族の侵略を受けたという設定がある。そのためこの地域は契丹の文化を色濃く受け継いでいる。また、扶桑王朝にしたがわなかった「まつろわぬ民」である倭人たちの文化を受け継ぐ場所でもある。朝廷の東西分裂以降は武将たちが太守を名乗り、東西の朝廷を半ば無視する形で都市や集落単位で実質的な支配を行っている。 北海道にあたる地域は茂尻(もしり)と呼ばれており、扶桑人のほとんどが到達したことのない神秘の世界である。ここには「銭貨も戦争も貧富の差もなく、熊のように勇敢で誇り高い男と花のように美しい女が住む王国」があるといわれている。「ほとんどが到達したことのない」とあるのは、厳寒の気候と海峡の流れに阻まれてしまうためである。 また、茂尻は白虎派開祖・岳鳴雪が長き修行と研鑽の末に白虎風雷拳に開眼した地であり、修行した山は「白虎山」と名付けられている。彼が茂尻の民に危機の折には駆けつけると約束したと伝わっている。これは白虎派で現在でも伝えられており、茂尻の危機には全ての白虎派の門人が集い、これを守ると噂されている。
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