洞松院
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洞松院(とうしょういん、寛正元年(1460年)、2年(1461年)、もしくは4年(1463年) - 没年不詳)は、戦国時代の女性。細川勝元の娘。細川政元の異母姉[1]。赤松政則の妻(後室)。名は「めし」。「めし殿」「局(つぼね)殿」「赤松うばの局」などと呼ばれた。義子・赤松義村の後見人として赤松家を支えた女戦国大名。
- ^ 政元の妹とする説もある。『晴富宿祢記』明応二年四月十四日条「京兆妹比丘尼東勝院落堕被嫁赤松」など。
- ^ 『赤松盛衰記』下、義晴卿入洛事条「洞松院ト云フ比丘尼ノ、極メテ醜女ノ在ケルヲ、無理ニ所望シ、還俗セサセ、コレヲ娶テ、政則カ妻トシ」。
- ^ 『蔭涼軒日録』明応二年三月十一日条「竜安寺殿息女洞勝院、赤松公婚姻之儀、今日相定矣、今夜別大所江請取之云々、其卅歳、先可有播州之行、然者別大之館江可被置白云々」。
- ^ 『大乗院寺社雑事記』明応二年三月十五日条「去十一日細川姉東松院<三十一>毘丘尼也、赤松之女房ニ成之云々、可遣之支度云々」。
- ^ 『後法興院記』明応二年三月十六日条「世上之儀、種々有雜説、細河京兆姉<別腹>比丘尼(トウセウ院)<年三十三云々>近日赤松兵部少輔妻ニ相定云々、京兆依為所縁弥有物云」。
- ^ 家永遵嗣「明応二年の政変と伊勢宗瑞(北条早雲)の人脈」『成城大学大学短期大学部紀要』27号、1996年。
- ^ 『蔭涼軒日録』明応二年四月三日条。
- ^ 『赤松記』 「扨次郎殿御若年により御国の御成敗は御前様。めし様はからひにて。何事も御印判にて被仰付候。此躰に候間訴訟申事相延。次郎殿治世の比を待申候間。」
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