播磨での生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 08:09 UTC 版)
誕生直後、亀王丸は義澄派であった播磨守護・赤松義村のもとに送られ、その庇護下で養育されることになった(『高代寺日記』『武家昇譜日記』)。その理由として、義澄を庇護していた六角高頼が義稙と内通しているとの噂があり、信頼できる赤松氏に預けることが賢明だと判断されたからである。 以後、亀王丸は赤松氏の拠点である置塩で育ち、11歳で上京するまで播磨で生活を送ることになった。義村は義澄から託された亀王丸を、慈愛をもって保護し、賢臣の忠を尽くした。また、義村は和歌や書道に秀でており、置塩城のふもとにあった置塩館では、冷泉為広など京都の公家や家人が訪れていた。他方、義村は備前守護代・浦上村宗ら家臣と対立・懐柔を繰り返していた。 永正9年(1511年)閏4月、義稙は管領・細川高国を摂津の尼崎に派遣し、義村の義母・洞松院と交渉、亀王丸を匿う義村を赦免した。 永正10年(1513年)2月14日、義稙陣営と義澄陣営(実質は亀王丸陣営)の和睦により、義稙の将軍職が確定した。この時、和睦の証として、義村自らが上洛し、亀王丸から預かった太刀と馬を義稙に進上した。なお、義晴はこの和睦以降、義維とともに義稙の養子になったとする史料もある。 永正17年(1520年)11月、義村は義母の洞松院と浦上村宗によって隠居に追い込まれ、嫡子の赤松晴政に家督を譲り、出家した。だが、12月に義村は亀王丸とともに置塩を脱出し、端谷の衣笠五郎左衛門を頼った。 永正18年(大永元年、1521年)3月、義村が浦上村宗への反攻を目論み、亀王丸は名目上の旗頭に担ぎ出されてしまったが、義村は裏切りにあい、東条の王泉寺に移った。その後、村宗と和睦し、片島の長福寺に移った。
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