播磨での活動の総論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
播磨国常楽寺での活躍は、多芸多才だった文観房弘真という人物の方向性を決定づけた。 律僧としての一面:文観はまず第一に民衆救済を志す高徳の律僧であり、#蛸草郷の耕地開発や#五ヶ井用水の修築事業といった開拓事業を指揮することで、東播磨に数百年以上に渡る公益をもたらした。 政僧としての一面:#東播磨正和石塔群の造営を通じ、後宇多上皇や皇太子尊治親王(のちの後醍醐天皇)といった時の最高権力者の知遇も得た。 学僧としての一面:文観はこの頃から『西玉抄』を著すなど、真言僧として仏教学への関心も深めていった(#学僧としての活動)。 画僧としての一面:西大寺では自分で絵筆を握る絵師としての活躍だったが、播磨では、一指導者として#東播磨正和石塔群の造営を監修するなど、美術監督としての名声も築いた。 開祖である叡尊と同様、それぞれの一面が個別にあるのではなく、全ての面が文観である。正和5年(1316年)、時に数え39歳。文観はここから中央での出世街道を突き進むことになる。
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