蛸草郷の耕地開発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
金子哲によれば、播磨国(兵庫県)における真言律宗の指導者となった文観は、土木事業によって民衆救済を図り、蛸草北村という地域の耕地開発を進めたという。金子の推測によれば、中世の蛸草北村とは、加古川市神野町の善証寺と日岡神社を含む、曇川の両端部を指す。ただし、この地域は近世の「蛸草郷」には含まれない。この文観が始めた事業のおかげで、14世紀に渡って、文観を継承した真言律宗勢力によって、川沿いの南東方向、つまり近世における「蛸草郷」へ開発が進んだ。そして、14世紀末にはついに、加古郡稲美町の天満大池の整備という一大事業まで完遂することができ、地域の福祉に大きな貢献をしたのだという。 以下に、金子の論旨を述べる。 まず、金子は神奈川県鎌倉市の臨済宗円覚寺に残る正和4年(1315年)6月21日付の2通の書状(『鎌倉遺文』25551・25552)を論拠として挙げる。これらの文書は、鎌倉五山第2位という強大な仏教勢力である円覚寺と、そして円覚寺の背後にいる北条得宗家の被官(私的な家臣)によって書かれたものである。文書からは、円覚寺・得宗に匹敵する勢力が、播磨国の「蛸草北村」という場所を新規開発しており、円覚寺はその利権を狙っていたことが読み取れる。百姓層だけによって円覚寺・得宗の権力に対抗することは難しいため、これは、西大寺の若手筆頭である文観が、「蛸草北村」の耕地開発を指導していたと考えられる。 問題点は、上記の文書の存在にも関わらず、近世において「蛸草郷」と称された地域で、真言律宗による開発の痕跡(石造物)や言い伝えが残るのは、14世紀後半ということである。これは文観が活躍したはずの時代から50年以上後のことである。 この点について、金子は、近世「蛸草郷」内の地名である「中村」が、北西端にあることを指摘した。そして、当時の郷内地名の用法からして、中世「蛸草郷」は、近世「蛸草郷」のさらに北北西に広がっており、「中村」は名前通り中心にある村だったのではないか、と推測した。実際、この北北西地域には14世紀前半の石造物が見られ、これは文観の時代と一致する。したがって、ここが前記の文書に言う「蛸草北村」であると考えられる。 金子はさらに、文観の祖父の一人は日岡神社の神主だったと推測されることにも言及し、よって、自身の拠点である常楽寺と祖父の拠点である日岡神社の政治的影響が強いこの地域から、土木事業に着手したと考えるのは自然であろう、とした。
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